ホテルオークラの建築は、ホテルオークラの2年後に開業したホテルニューオータニの建築に大きな影響を与えた。三ツ矢方式の建物の頂上に展望レストランを設けることを提案したのは、ホテルオークラの当時の社長、野田岩次郎だった――。

※本稿は、永宮和『ホテルオークラに思いを託した男たち 大倉喜七郎と野田岩次郎未来につながる二人の約束』(日本能率協会マネジメントセンター)の一部を再編集したものです。

ワインで乾杯をする男女
写真=iStock.com/Serhii Sobolevskyi
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日本らしさを追求した国際的ホテル

(大倉)喜七郎は老齢にもかかわらず、大成観光への出資要請の旅のついでに、指物や漆芸などの名人のもとにしばしば足を運んだ。ホテルに導入する意匠や什器を見定める目的からである。

それは「世界のどこにもない、日本らしさを追求したホテル」という理念の具現化を、会長自ら真剣に模索していたことを意味している。いかにも凝り性の趣味人、審美眼を備えた文化人らしい。そうして蓄積していったイメージは、建築・意匠分野の専門家たちの社外メンバーで構成された設計委員会につぎつぎと伝えられ、設計コンセプトに落としこまれていった。

旧ホテルオークラは日本らしいホテルだった。箱根の富士屋ホテルや奈良の奈良ホテルは外観からしていかにも日本らしい伝統の佇まいだが、オークラのそれはまったく異なる現代性と伝統性を融合させた独自の「日本らしさ」であり、外観、内装ともにその理念にもとづく美意識が縦横に表現されていた。2015年夏から開始された建替えにさいしては、国内外の文化人や建築学者などから反対の声が続々とあがったが、それも旧建築が唯一無二のものとして高く評価されていた証である。

「日本の文化、美術、芸術を取り入れたものにしたい」

ホテル設計の基本コンセプト決定の経緯について、野田岩次郎は『私の履歴書』のなかでこう説明している。

私は大倉さんとひと晩、腹を打ちあけて話をした。現在、日本にあるホテルは全部欧米の模倣であって日本の特色を出していない。欧米から高い運賃を払って日本に来るのは、日本の風土、習慣、文化、つまりローカルカラーを味わうために来るのだから、私がホテルを任されたら、日本の文化、美術、伝統を取り入れたものにしたいと言い、大倉さんとも完全に意見が一致した。

また建物については、「日本風といっても歌舞伎座のような桃山式の派手なものではなく、もっとすっきりとしたものにしたい」という意見に大倉さんも「自分もそう思う。絵で言えば光琳の豪華けんらんさでなく、光悦、宗達の精神をくんだものにしたい」と言われた。そして作るなら最高級のものにすることでも一致した。

ただ一つだけ意見が違ったのは、大倉さんがいいものさえ作っておけば、客は自然に集まって来るという考えであったのに対し、私は、座して待つのではなく、世界中に営業の網を広げて客をつかまえてくるつもりだ、という点だった。「それはそれで結構だ。全部君に任すから良いものを作ってくれ。もし変なものを作ったら、二十年でも三十年でも、五十年でも文句を言うよ」と言ってくれた。