ホテルは一流、ただし客室は一番安い部屋

それは、極東の島国からやってきた駐在員が、白人の信用をえるための“背伸び”であり、相手への心理作戦だった。ただし商売相手の目に触れることのない客室はホテルで一番安い部屋をとった。そういえば帝国ホテルに喜七郎のポケットマネーで長期滞在していたオペラ歌手の藤原義江も「船は一等、ホテルも一流、しかし客室は一番安い部屋」という主義だった(※1)

※1『帝国ホテル百年の歩み』P137。

生糸のセールスのため全米四十八州のほとんどを回った。アメリカ人のセールスマンに任せていた生糸の売り込みを、私たちが直接やろうというのである。けれども相手の社長などは、白人のセールスマンでもなかなか会えない。日本人なら言葉の不十分もあってなおさらだ。そこで考え出したのが、高級ホテルの利用であった。その土地の最高のホテルに泊まり、商談は豪華なロビーでする。服装、身だしなみにも気を使い、できるだけ良い服を着て、プレスもきかせ、靴はピカピカに磨いて、髪もきちんと分けてゆく。ただし泊まる部屋は出張旅費も安いしどうせ寝に帰るだけだから、内庭に面した最低の部屋にした。(『私の履歴書』より)

そういう商用旅行を重ねた野田は、高級ホテルのパブリックエリアや客室のあり方をいろいろとみてきて、使い勝手の判断基準でも目が肥えていた。

高級ホテルのロビー
写真=iStock.com/Blair_witch
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海外の一流ホテルを視察する半年間の旅

野田は社長就任からすぐに、海外の一流ホテルを視察する半年間の旅にでる。ホテルオークラの設計に反映させるためである。川奈ホテル社長で大成観光専務を兼務する片岡豊が同行し、大成建設の技師3人も引き連れての旅だった。

それは「ホテルに入るや、すぐ巻き尺を持って部屋や廊下を隅から隅まで測り、天井板を持ちあげて天井裏を覗き、暖房のパイプの配管、水道や湯の水圧まで調べた」(野田)というほどだった。

視察というよりも、盗めるものはなんでも盗んでやろうと執念を燃やした“アイデア剽窃”の旅だった。大成建設の技師たちも、ホテルブーム到来でやがて日本国内での建設需要が急増してくることはわかっていたから、本場のホテル設計研究に必死だった。

そうして調べあげた欧米ホテルの施設・設備の最新レポートは逐一、設計委員会に手紙や電報で送られ、ぜひ設計に反映してほしいと訴えた。野田たちはホテル研究に没頭し興奮していた。ところが委員会内部では、野田がそうして意見をすればするほどうっぷんが溜まっていく。

「専門家でもない人間からあれこれと細かく口出しされては、仕事がやりにくくて仕方ない」

委員たちの反発も無理はない。施主側のトップがうるさく口出しすることほど、設計陣にとって厄介なことはないし、「それではなんのための委員会設置だったのか」と意欲が削がれてしまう。