高度な要求を実現するため設計委員会を組織
ホテルのコンセプトについての見解は、会長と社長とでほぼ一致していた。あとはそれをどう設計デザインや什器・備品調達に反映させていくかだが、その実施過程ではさまざまな見解の相違があり、意匠デザインのやりなおしが幾度もおこなわれた。
ホテルの建設工事は、旧大倉財閥系の大成建設が担当することは既定路線だったが、設計施工を建設会社に丸投げする従来の手法では、喜七郎たちの意匠に対する高度な要求を実現することはできない。そこで大成観光は、東京工業大学教授で建築界の大御所である谷口吉郎を長とする設計委員会を組織して、設計実務を委託することにした。
東宮御所、慶應義塾大学第三校舎、藤村記念堂などを設計した谷口は、愛知県犬山市にある博物館明治村の初代館長でもある。日比谷の鹿鳴館が解体されていくようすを目にした谷口は、明治期建築の保存の必要性を強く感じ、旧制第四高等学校(金沢市)の同窓生である名鉄会長の土川元夫に専用施設開設を持ちかけて、それを実現させたのだった。
米国の各都市で一番高級なホテルに泊まってきた経験
ホテルオークラがライバルとして強く意識した帝国ホテル・ライト館は建替えが決まった当初、完全撤去されるはずだったが、当時の佐藤栄作首相から「一部でも保存できないか」と相談された谷口は、政府の予算的支援を条件として交渉し、エントランスおよびロビー部分の明治村への移築を実現させた。
設計委員会にはほかに、外務省庁舎を設計した小坂秀雄、大倉集古館を設計し日本の伝統様式に精通する清水一(大成建設所属)、三菱地所建築部長の岩間旭、虎ノ門病院を設計した伊藤喜三郎という実力者たちが参画した。
「つくるなら最高のものに」と宣言した社長の野田は、右腕として招聘した青木寅雄とともにホテル事業の経験はまったくなかった。だが、彼はかつてホテルのヘビーユーザーだった。戦前、日本綿花の駐在員として米国国内をセールスで駆けまわった彼は、各都市にいくとかならず一番高級なホテルに泊まり、ロビーラウンジなどで商談をするようこころがけていた。