「ケネディ暴落」に右往左往する池田内閣
田中が大蔵大臣に就任したとき、国際社会ではアメリカのケネディ大統領によるドル防衛が露骨な形で政策として練られていた。こうした政策は、そのまま日本の貿易収支に影響を与えるのではと懸念された。証券市場ではダウ平均が短期間に100円から150円もダウンするという状態になった。
株価の暴落は池田内閣に痛手となった。これが俗にケネディ暴落と評されたのだが、池田内閣は、市中銀行から日本証券金融への協調融資の幅を広げるよう要請を行うなどの手を打った。しかし、さしたる効果はなかった。
田中は大衆投資家に株式投資を控えないよう呼びかけるなどして、この事態に対応した。
だが実際には、アメリカのこうした政策は政治と結びついていて、当時モスクワで結ばれたアメリカ、イギリス、ソ連による部分的核実験停止条約に対して日本の参加を促す意味もあったのだ。
「一国経済膨張主義」という独自の立場
政治と経済が一体化している現実、さらに高度経済成長政策を採用しはじめたときの日本経済について、まだその基盤は弱いとしても、現実には国際収支は黒字であり、しかも日本では金利が高いので、アメリカ政府としては自国の資本が日本にむかっているとの懸念をもっていた。日本に対するこれまでの幾つかの特典を再検討するとの方向が、明確に打ちだされてきたのである。
田中の財政政策の要は、好むと好まざるとにかかわらずアメリカとの協調関係の枠組みをどのように捉えるかという点にあった。田中はここでは、きわめて独自の立場を採った。
国内経済政策を第一義として、高度経済成長政策の実効性をそのままこの社会の現実の姿に変えていく、一国経済膨張主義という語がふさわしい手法を自らの信条とするものであった。
その政策を支える思想、理念はどの点にあったか、を確認しておかなければならないのだが、田中はそうした考えについてこの期とて明確な意見を明らかにしたことはない。
あまりにも下世話な言い方で語っていることが多いのだが、あえて探していけば、前述の『田中角栄回想録』からそれに類する述懐を求めることはできるように思う。