「もっと道路をよくしなくちゃならん」
「これからの日本経済、産業構造、これをどうするかといえば、とにかく二次産業の比率をもっと上げることだ。一次産業比率は好むと好まざるとにかかわらず、落ちていくんだ。6パーセントぐらいまでは落ちる。今の統計数字では10パーセントぐらいになっているけどね。(略)アメリカの一次産業比率4パーセント、EC10カ国平均の6パーセントと比べてみてもいずれわが国の一次産業比率は6パーセント近くにならざるを得ない」
「地方に新しい産業がどんどん立地していくためには、もっと道路をよくしなくちゃならんし、土地の造成も進めなくちゃならない。つまり国土利用を広げなくちゃいかんわけだ。それにはカネがかかる。しかし、そうした国土利用の改造資金はね、民間を利用してつくればいいんだよ。有料道路などの建設費はみんな民間の資金を使えばいい(略)。民間に道路をつくらせて、地方自治体がそれを手伝えばいい。その場合には、すぐに補助金を出すことだ。補助金がなかったら、税理上の面倒をみてやればいいじゃないの」
田中の説明はこのような単純化した表現に終始するのだが、しかしこの単純に見える論法のなかに確かに本質は見えている。
角栄はどうやって地元・新潟を潤したのか
池田内閣の経済政策は〈インフレなき高度成長政策〉であったが、その柱は公共投資と減税と社会保障にあった。国内経済に活力を与えながら、国際情勢に対抗するために貿易の自由化を図る。雇用を拡大し、労働力の質と量を高め、そして農林業や中小企業については一気に近代化を図っていく。
そのために36年度を初年度とする道路5カ年計画から始まって、第一次産業から社会保障まであらゆる方面にわたってのプランづくりと、それを果断に実行していく政策が詰められていったのである。
田中が権力ヘ到達する道をもっとも細部にわたって検証した新潟日報社編の『ザ・越山会』は、大蔵大臣時代の田中が、地元にいかに利益誘導をしていたかを一定の範囲で暴いている。
そしていかに巧妙にカネを撒くかということだけでなく、このころから秘書的存在となった佐藤昭(のちに昭子と改名。平成22年死去)を腹心がわりに用いたことも明かしている。
「勝ち気でテキパキとしたヤリ手の昭は、田中が蔵相になるころからグングン力をつけてくる。大蔵省に自分の机を持ち込んで執務し、田中のカネを一手にまかせられるようになった」とも紹介している。