河野一郎に「豪雪は災害だ」と押し通す
田中のもとには、地元の越山会を通じて各種の陳情が届いたが、田中はその陳情(就職や結婚の世話まで含まれていたという)も、集票の実態に合わせて即座にランクづけをし、中央官庁にとりついだり、自らの縁で企業に押し込んだりしていたというのである。新潟から、市町村長が揃って田中詣でをするのも決して珍しくない光景となった。
昭和38年1月に、東北、信越、そして北陸地方は何年ぶりかという豪雪に見舞われた。田中はこれまで新潟への豪雨、豪雪の折に地元市町村から、災害工事、道路整備などの陳情を受けるたびに、越山会のルートを通じてそれを査定したうえで、自らの利益になるとなれば、すぐに建設省、大蔵省などを通じて予算を回すよう画策した。
この異常な豪雪のときも、田中のもとには陳情が殺到した。市町村の段階では、予算のうえでこの豪雪から住民を守る手だてをもっていなかったからだ。そこで田中は、この豪雪のときはこれに伴う災害工事は公共事業補助の対象にするよう建設大臣の河野一郎に申し入れたのである。
「雪は災害になるというのか。そんなところまで範囲を広げたら『激甚災害』の範囲はどこまでも広がってしまうではないか」と反発する河野に、田中は、「今度の異常豪雪は災害としかいいようがない。これは特別なんだ」と正面切って応じた。
マイナスをカバーする角栄独自の論法
当時、実力者といわれていた河野にとって、明らかに自らの選挙目あての対策でありながら、表面では積雪地帯の苦衷を代弁している田中の姿勢は不快ではあったろうが、予算をにぎっているのは田中であり、河野も渋々といった表情でこの申し出を受けいれた。
こうした前例をつくることで、田中は豪雪そのものを補助金の対象にしてしまった。それ以後は豪雪によって、市町村は国から補助金を受けとって復旧工事や道路整備、それに住民の日常生活を保護するさまざまな設備への投資を行うようになった。
新潟県をはじめとする豪雪地帯では、建設業が新たな産業となって仕事量をふやし、業界全体が冬期にも一定の仕事を確保することになったのである。
ひとつのプロジェクトをもちだすときに田中の用いる便法は、常にマイナスをカバーする論理を含ませている。正確な田中像を描くときに重要なのは、この論法の普遍性を確かめうるか否かにかかっている。多くの角栄本(田中角栄礼賛本)は、この普遍性を無視するところから始まっているので、説得力に欠けている。立花隆の田中角栄に関する書は、この便法をロッキード裁判のなかで見破っていたと言えるのではないかと思う。