田中角栄は、小学校卒業という学歴から総理大臣まで上りつめた稀有な政治家だ。ノンフィクション作家・保阪正康さんは「1962年に44歳の若さで大蔵大臣に就任した角栄は、官僚個人の私生活も調べあげ、飴とムチを使い分けた」という。著書『田中角栄の昭和』(朝日文庫)より、一部を紹介する――。
田中角栄
1972年7月、田中角栄が首相に就任(写真=内閣官房内閣広報室/CC-BY-4.0/Wikimedia Commons

最強省庁・大蔵省に“異例”の大臣登場

大蔵大臣として初登庁した日、田中は大蔵官僚に歴代の大臣とは異なる挨拶を行った。

早坂茂三の『田中角栄回想録』によると、「私が田中角栄だ。小学校高等科卒業である。諸君は日本じゅうの秀才代表であり、財政金融の専門家揃いだ。私は素人だが、トゲの多い門松をたくさんくぐってきて、いささか仕事のコツを知っている」と切りだしたのだという。

続いて、共に仕事をしていくにはよく知り合うことが大切だ、われと思わん者は遠慮なく大臣室に来てほしい、上司の諒解など必要ではない、と話を続けた。

田中らしい正直な言ともいえるが、改めて分析してみれば、大蔵官僚に田中流の媚とへつらいを示すことによって表面上はなだめ、もう一方で、意に沿わなければ、容赦なく切り捨てるとの意味に解することができた。

田中は、甘言と恫喝を使い分ける政治家であることを告白したとも言えた。このような大臣が大蔵官僚の目の前に現れたのは、その歴史上初めてであった。

「バカにされて悔しい」では終わらない男

大蔵大臣の田中に対して、当初大蔵官僚は決して甘くはなかった。官僚たちは内心では史上最年少のこの大臣が――しかも彼らによるなら「基礎的な財政知識をもっているか否かわからない叩きあげ」となるのだが――大蔵省を牛耳ることに強い反感をもっていた。

当初田中は意見を述べにくる高級官僚のあまりにも人を愚弄した言動に怒りを隠さなかったし、ときには大臣室で口惜くやし涙を流したとも言われているほどだ。

そのような体験を経ながら、田中は自らにしかできない官僚操縦術を身につけていった。

それは官僚たちの序列や慣行をつぶさに記憶していっただけでなく、官僚個人の私生活についてもくわしく調べあげることだった。誕生日には贈り物をするというような、田中なりの手法もくり返した。

もとより、それだけで官僚が黙するわけではない。自民党の他の派閥に通じている官僚には人事権をフルに利用して閑職に追いやった。