大河ドラマ『べらぼう』が最終回を迎える。横浜流星さんが演じた蔦屋重三郎の死後、江戸幕府はどうなったのか。11代将軍・家斉が大奥を肥大化させ、財政は急速に悪化。この時から幕府衰亡の歯車は静かに回り始めていた。歴史ライターの小林明さんが読み解く――。
德川記念財団蔵「徳川家斉像」
德川記念財団蔵「徳川家斉像」(画像=『徳川将軍家の宝物と文書展』/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

大河ドラマで描かれた奇抜なフィクション

NHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』では11代将軍・徳川家斉が実父・一橋治済の悪行に嫌気がさし、蔦屋重三郎発案・松平定信主導による「治済島流し計画」に加担するという、奇抜な設定になっていた。計画は成功し、眠り薬を飲まされた治済は阿波国(徳島県)の孤島に送られ、そのまま幽閉された。

もちろんこれは演出上のフィクションである。実際の治済は寛政11(1799)年に家督を一橋家六男・斉敦なりあつに譲って隠居し、文政3(1820)年には「従一位」に叙せられた。

従一位は徳川将軍が引退し「大御所」となった際に賜る位階だ。治済は将軍を経験していないため大御所になれなかったが、それと同等の立場の厚遇を受けたことになる。また文政8(1825)年、大臣に準ずる称号である「准大臣」も授かっている。

「蔦重の死後」の勝ち組

一方、息子の家斉はその後、将軍在位50年という長期政権を築き、大奥に側室16人を持ち、子どもを50人以上もうけた。50人以上という数も実は正確に把握できず、文献によって52〜57人まで諸説ある。

これをもって家斉時代の大奥を「ハーレム」、家斉を絶倫の「オットセイ将軍」と揶揄する声も少なくない。オットセイの陰茎を粉末にした精力剤を服用していたという噂があったことに由来する。他に「種馬公方」との異名もある。

幕府の御庭番、すなわち秘密裡に諜報活動を行っていた旗本の川村修富は、日記に「御内々御誕生御用」という例を記している。これは「内々に誕生した」家斉の子を「御用=堕胎」させた話だ。1809(文化6)年〜1814(同11)年の間に4回あったらしい。おそらく身分の低い女中が家斉の“お手つき”となって妊娠したものの、落胤として容認できず中絶したのだろう。

晩年の位階の昇進によって栄華を極めた父、武家の最高位・征夷大将軍として半世紀にわたって大奥に君臨した息子――この2人は、蔦屋重三郎が没したのちの1800年代前半を思うままに生きた、時代の“勝ち組”だった。

11代将軍・家斉と大奥の密接な関係

家斉期の大奥は徳川幕府約260年の歴史の中でも、異質の状態にあった。その異色さは“爛熟”――熟しすぎて爛れていたといえる。

そもそも家斉は、誕生したときから大奥と密接な関係にあった。