家斉の母はお富の方で、お富の父は岩本正利といった。岩本家は、8代将軍・吉宗によって幕臣に取り立てられた紀伊藩士だった。その縁でお富は10代将軍・家治の時代に大奥の女中を務めていたが、そこを一橋治済が見初めて側室とし、2人の間に生まれたのが豊千代、のちの家斉だ。
普通は大奥の外には出ることのない女中を治済が譲り受けたのは、徳川御三家・御三卿の当主・子息に限り、大奥に出入りするのを許されていたからだ。
豊千代にとっても大奥は母の“元職場”であり、顔馴染みもいたはずだ。歴史エッセイストの岡崎守恭氏は、「大奥は家斉の実家のようなものだった」と述べている。女性だらけの特殊な環境が及ぼした影響は小さくなかったろう。元服し家斉と名を改め、15歳で将軍に就任した直後から、女性乱脈の兆しを見せ始める。
1789(寛政元)年2月、家斉は薩摩の島津家から正室を迎えることになっていた。名は「篤姫」(後に天璋院を名乗る女性とは別人)」。幼少時に一橋家と島津家の間で取り決めた許嫁だった。
「種馬公方」の片鱗
だが婚約時は、将軍継嗣の序列が田安家に劣る一橋家の家斉が抜擢されるなど、誰も思っていなかった。それが棚ぼた式に将軍となったため、正室にもそれなりの家格を整える必要が生じた。そこで幕閣たちは篤姫を五摂家の近衛家の養女とし、名を近衛寔子に改めてから家斉に輿入れする工作を必死で行なった。
ところが翌月、その苦労を台なしにしかねない事件が発覚する。奥女中が家斉の子を産んだのである。
薩摩芋、つまり島津からやって来る姫を待ちきれなかった上様が、「おまん」に手を付けて妊娠させてしまったという落首(風刺の歌)が世間に流布した。「おまん」とは最終的に家斉との間に一男三女を産む側室・お万の方を指す。このときの子は長女の淑姫で、長じて御三家・尾張藩主の妻となる。
それはともかく、薩摩藩から御台所を迎える異例の事態に周囲が大慌てしている最中、メンツをつぶしかねない身勝手な振る舞いを平然とやるところに、家斉の性格の一端が読み取れよう。父・治済ゆずりの“血”といえるかもしれない。
治済と家斉の初親子2ショット
— 大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」日曜夜8時 (@berabou_nhk) December 5, 2025
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家斉の金遣いの荒さを支えた貨幣の改鋳
家斉在位50年の初期は松平定信が実権を握っていた。「倹約」をモットーとした定信は、大奥にカネを注ぎ込むような無茶は控えた。
定信が失脚し、定信と共に政権を支えていた「寛政の遺老」と呼ばれた者たちが台頭すると、26歳の老中・松平信明が中心となって家斉を支えた。信明は家斉にも意見具申できるようだったが、享和3(1803)年辞任。家斉が実権を握るための事実上の解任だったという。
次に老中となったのが水野忠成。忠成は家斉に忠実で、大奥の維持費などに投入する資金を捻出すべく、貨幣の改鋳を繰り返した。

