天保12(1841)年、家斉が死去すると、幕府は大奥の風紀の乱れを是正しはじめる。智泉院には調査が入り、お美代の父・日啓とその後継者の僧侶・日尚ら数名が密通の罪で捕らえられた。担当したのは寺社奉行の阿部正弘、のちの幕末の老中首座である。
日啓は遠島と決まったが、江戸を離れる前に獄中で病死したという。
大奥の女中たちは数十人が関与したといわれながら、処罰者は出なかった。延命院事件と同じく、現役の関係者を裁くのは難しかったのである。しかし、家斉が残した負の遺産「大奥の腐敗」を除去することはできたといえよう。
なお当時、すでに髪を下ろして出家し「専行院」を名乗っていたお美代は押込の処罰を受けたという俗説が伝わるが、この話には根拠がないらしい。
「公式記録」に書かれた意外な将軍像
家斉は女性好きで浪費癖の治らない将軍という印象だけに、性格も無軌道と思いきや、記録に残った人物像は決してそうともいえない。
例えば『徳川実紀』は、家臣の武芸披露を上覧した際、末席の武士の氏名・品格まで「御おぼえあることよ」(よく覚えていた)と、異常なまでに記憶力が良かったことを書き残している。
一方で鷹狩りに出向けば風・地形を読み、理詰めで獲物を追い詰める術に長けていたとある。酒が好きだったが、朝は早く起床し生活は規則正しく、馬術も嗜んだ。頭脳明晰・文武両道の魅力的な男だった可能性すらある。
思想家の頼山陽は著書『日本外史』で、家斉の治世をこう述べる。
「武門天下を平治する。ここに至って、その盛りを好む」
将軍が政務に関わらなくても世の中は平穏であり、幕府の権力も強かった。
家斉と大奥の繁栄は「幕府終焉の序章」
『文恭院御実紀』(文恭院/家斉が死後に授かった法号で、『文恭院御実紀』は彼の伝記)はこう残す。
「万民苦しむことなし、遊王となりて数年を楽しみたまふ」
大衆は文化・文政年間(1804〜1830)に江戸を中心に栄えた「化政文化」の世を謳歌し、家斉は「遊王」となって楽しんだ。
だが、「遊王」の遊びの舞台となった大奥は放漫財政の象徴であり、その浪費の代償は家斉の死と同時に顕在化し、幕府の威権は傾きはじめる。そして12代・家慶の治世の晩年に黒船が来航し、幕府は瓦解へと向かっていく。
『べらぼう』のその後の時代に訪れた家斉と大奥の繁栄は、幕府終焉の序章でもあったといえよう。
参考文献
・岡崎守恭『遊王』(文春新書、2020年)
・河合敦『徳川15代将軍 解体新書』(ポプラ新書、2022年)
・福留真紀『徳川将軍の側近たち』(文春新書、2025年)
・小松重男『旗本の経済学 御庭番川村修富の手留帳』(郁朋社、2000年)


