具体的には、金の含有率をこれまでより10%も落とした劣悪な貨幣を鋳造し、小判の価値との差益を幕府が得るという仕組みだった。これによってもたらされた利益は約550万両。まさに打出の小槌である。明らかな放漫財政だが、とにかくカネが必要だったのである。
何しろ男子を産んだ側室「御部屋様」が11人、女児だけを産んだ「御腹様」が5人おり、この者たちには専用の個室が与えられ、身の周りの世話をする女中が複数人いた。個室の拡大・維持と女中たちの人件費、さらに生まれた子どもたちの慶事・服装・養育――湯水のごとくカネが出ていったろう。
大奥スキャンダル①延命院事件
家斉の時代の大奥は、スキャンダラスな事件も起こした。「延命院事件」はその代表例だ。
寛政8(1796)年、日暮里(東京都荒川区)日蓮宗の寺院・延命院の僧・日道(または日潤)と、江戸城奥女中が男女の情交に耽っていると噂になった。
延命院は3代将軍・家光の側室、お楽の方が帰依して子宝に恵まれたと伝わる寺で、恵まれた子宝が4代・家綱だった。このことから、将軍の側室に代わって奥女中が参拝し懐妊を願う「通夜参籠」(泊まりがけの祈願)が行われ、その際に僧侶と女中が淫らに交わっているというのだ。
寺社奉行の脇坂安董が周到に調査し、享和3(1803)年5月、延命院に踏み込んで日道を召し捕った。『べらぼう』の登場人物である大田南畝は随筆『一話一言』に、日道の罪状を記録している。
ここに名があがった「ころ」という下女は、のちの12代家慶付きの奥女中「梅村」の配下にあったという。
梅村が密通に絡んでいたかは定かではないが次期将軍付きの幹部女中を罰するわけにいかず、言葉は悪いが配下の“下っ端”を検挙したのではなかろうか。ちなみにころに科せられた罰は「押込」(一定期間自宅に閉じ込めて外出を禁じる軽い刑罰)だった。噂の発覚から7年を要しても、大奥が絡んだ一件は慎重に対処せざるを得なかったのかもしれない。
大奥スキャンダル②智泉院事件
「智泉院事件」はもっと生々しい。智泉院は下総国中山(千葉県市川市)にある日蓮宗の大本山・中山法華経寺の支院にすぎなかったが、いつのまにか幕府に厚遇されるようになっていた。智泉院の僧侶の日啓が、家斉の寵愛を受けた側室・お美代の方の実父だったからである。
お美代が家斉に「実家の寺の格を上げてほしい」と“おねだり”したことによって、智泉院は中山法華経寺の「御用取次所」(幕府関係者が祈祷する際の窓口)に格上げされ、江戸城から下総中山まで7里(約28km)あるにもかかわらず、大奥の上級女中が行列をなして通った。
そのうち、「宮女が陰門を飽くまで坊主にふるまひし」と、奥女中たちが智泉院の僧を“性接待”していると噂されるようになった。しかし、家斉の側室の実家の寺だけに、家斉が生きているうちは手出しできなかった。

