経緯を聞いた天の神様は、愚公の心意気に感じ入ってしまい、使いの者をやって、2つの山を動かしてやった――。

「虚仮(こけ)の一念、岩をも通す」ということわざが日本にもあるが、まさしくそんな話なのだ。

ところが、面白いことに『列子』には、この「愚公山を移す」の後に、こんな寓話が続いている。

ある巨人が、太陽に追いつきたいと思い、走って行った。途中ひどく喉が渇いて、黄河や渭水(いすい)といった大河の水をすべて飲み干してしまう。しかし、さらに走り続けているうちに、乾ききってついに死んでしまった――。

こちらは、「虚仮の一念」が、残念ながら通らなかった、そんな話なのだ。

両者の違いは、果たしてどこにあるのだろう。

一読してわかることは、主人公たちの目指すものが「みんなのため(義)」か「自分の欲望(私)」か、という相違だ。

愚公の方は、山があると、みなが不便で困るから動かす、という大義があった。だからこそ家族や神様も賛同してくれたし、子孫も当てにできたわけだ。

一方、太陽を捕まえたい、という行動には、傍から応援したくなる要素はない。あくまで個人の願望だけだ。

大義ある「志」か、私欲だけの「野望」か、これが「虚仮の一念」の成否を分けるキーワードだったのだ。