組織を劣化させる沈黙という生存戦略
最近の学生はおとなしい、とよく言われるが、何も考えていないわけではない。彼らは彼らなりの生存戦略を選択しているだけだ。そして「医局」のような典型的な、昭和なエートスを持つ組織、社会では、「沈黙こそが正しい生存戦略」となる。大人しくなるのは当たり前だ。
その生存戦略は、その人物の「生存」という観点だけからは、正しい。ただし、こういう組織は成長しない。逆に劣化していく可能性が非常に高い。
よって、こういう組織での活動に慣れた医学生や研修医、そして医者たちは、耳に痛い話に近寄らなくなり、議論が苦手になる。やらないことは、苦手になるのは当然だ。スポーツであれ、音楽であれ、訓練をやめてしまった状態で能力を維持したり向上する可能性はゼロである。
出口治明氏によれば、唐の時代の太宗は、耳に痛い諫言を積極的に部下に求めたという。
太宗は幼少の頃から弓矢を好み、その奥義を極めたと自認していた。ところが、ある日、弓工に自分の弓をみせると、弓の木の心がまっすぐではないためによい弓ではなく、矢がまっすぐに飛ばないという。
自分が熟知している弓についても、専門のプロには及ばない。ましてや、専門外の政治においてはさらにそうだろう。太宗はこうして専門家など、多くの意見、特に諫言に耳を傾けて、謙虚に政治に取り組んだのだそうだ(出口治明『貞観政要 世を革めるのはリーダーのみにあらず NHK「100分de名著」ブックス』NHK出版)。
忖度なしの議論で人間関係は壊れない
私はこれまで、アメリカで5年、中国で1年間診療した経験を持つが、それ以外にも沖縄で1年、そして千葉県の病院で4年間診療した。
沖縄の病院と千葉の病院はアメリカの指導医を教育に入れるなど、先進的な医学教育で有名な教育病院だ。いずれの地でも議論は活発に行われ、患者の最良のケアを追求してきたが、「議論すること」で人間関係が気まずくなったりすることはない。そもそも、議論くらいで人間関係が壊れてしまうようなら、怖くて議論などできない。
現在の神戸大学病院には2008年から勤務している。私が教授を務める感染症内科では、毎日のカンファレンスで激しい議論が行われることで有名だ。若手の医師から最年長の私(現在53歳)まで、「何が正しい診断なのか」「何が正しい治療なのか」、一所懸命に議論する。
忖度などもちろんなしだ。患者の生命リスクがかかっている医療である。
その生命を毀損するリスクを冒して忖度するなんて、私としては考えられない。どれほど自分の耳がひりひりと痛むとしても、上納金や上長への忖度に慣れる体質に感染することとは比べようもなく、健全であり持続性が高いからである。