本当は作家になりたかった

小林は1873年(明治6)、山梨県に生まれる。1892年(明治25)の暮れに慶應義塾を卒業し、1893年(明治26)年1月から三井銀行で働くことが決まっていたが、実際に小林が初出社するのは4月4日を待たなければいけない。

小林三井銀行本店
小林が働いていた頃の三井銀行本店(写真=“The Liberal news agency”/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

体調不良だったり、特別な事情があったりしたわけではない。なんとなく行く気がしなかったのだ。温泉でダラダラ過ごし、地方紙に時代小説の連載を書いていた。当然、銀行からは出社しろと催促を受けたが、「気が進まない」という理由で出社しなかった。時代といえば時代だが、それによってクビにならないのもすごいし、催促されても一向に出勤しない小林もすごい。

そもそも、小林は銀行で働く気はなかった。在学中から作家を目指し、卒業後は知人の伝手で新聞社に入ろうとしたが、立ち消えになり、しぶしぶ三井銀行で働くことにしたのだ(銀行に入ってからも新聞社に入社できないかと検討していた)。

小林が出社しなかったのは就きたい職業でなかったからというのも理由だろうが、そこまで必死に働く必要でない環境であったことも大きい。実家がめちゃくちゃ裕福だったのだ。

「私の初任給は月給十三円、半期賞与金四ヵ月、毎月二十円程度の収入であった。下宿料は八円で、普通ならば充分であったと思うが、半期五百円くらいは生家から、なんとかかんとか文句を言われながら仕送りを受けておったのである。」(小林一三『逸翁自叙伝』、講談社学術文庫)

左遷の連続だった銀行時代

給料の4倍以上の仕送りがあったら、誰もが必死に働かないだろう。実際、小林は学卒後15年間、三井銀行に勤めるが出世とは縁遠い行員生活を送る。

異動の内示が出て、大阪の支店から東京に赴任したら異動日になぜかその人事が取り消されたり、グループ内人事で三越呉服店への移籍がほぼ決まり、三越に骨をうずめるつもりで株も購入したら、三越側にやはり無理ですと断られたり……。

ほかにもいくつか移籍話があったものの実現せず。行内でも左遷の連続。つまり、社内外であまり評判が良くなかったのである。

小林も、さすがにこれでは頭打ちだ、どうにかしなければと焦りはあった。出世できそうもないなら、銀行から出るしかない。

そんなとき、三井物産の旧知の人から「今度、三井が大阪で証券会社を立ち上げるから社長をやらないか」と声がかかる。もちろん、断る選択肢はない。銀行をやめ、大阪に向かうのだが、どこまでもついていない。日露戦争のあと、高騰していた市況が一転して急落。証券会社設立どころではなくなっていた。小林は困る。銀行はすでに辞めている。仕事はない。無職になった。