就いたのは「田舎鉄道」の監査役

さすがに誘った方も悪いと思ったのか、そこで、新たに持ち掛けられたのが鉄道会社の職だった。小林は三井物産が大株主の阪鶴はんかく鉄道の監査役に就いた。

※尼崎から福知山を経て舞鶴を結んでいた鉄道路線

お飾りのようなポジションに映るだろうがそれもそのはず。この会社は国有化されて解散することが決まっていた。小林の仕事は解散前に同社が創立に向けて動き出していた鉄道会社(箕面有馬電気軌道)の立ち上げである。これがのちに阪急鉄道になる。

とはいえ、会社の名前からわかるように有馬温泉や箕面公園を通る田舎電車がまともに商売になるとは誰も思わない。発行株式11万株のうち、5万4000株もが引き受け手がいない状況で、創業できずに解散するのではという事態になっていた。

小林にすれば、「サラリーマンなのだから、お偉いさんが株主を募って、会社ができて、そこの重役として給料をもらえるのならばラッキー」くらいの感覚だったのだが「責任をもってやれ」と丸投げされてしまう。「そんなの聞いてないよ」といいたいところだが、他に仕事はない。無職に逆戻りは御免と奔走する。

腹を括って一気に進め、紆余曲折がありながらも誰にも相談せず独断で出資者を集めるが、このときの出資者側の条件がけっこうめちゃくちゃなのだ。

小林一三
監査役になったころの小林一三(写真=http://atamatote.blog119.fc2.com/blog-entry-117.html/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

小林が考えていた勝算

「『仮に、お前(編集部註・小林を指す)が株式の不足分を全部引受けるとしても成立の出来ないというような場合に、我々に一文も迷惑をかけない、同時に株主にも証拠金は全部返すというだけでは困るから、お前からただちに支出するという金額を明記した証書を出せ』というので、至極御もっともな注文であるから、まかり間違った場合には五万円のバクチだと度胸をきめ、証文を書いてお渡した」(前掲書)

5万円は現在だと5000万円以上の貨幣価値になる。

他に選択肢がなかったとはいえ、小林なりに「田舎電車」での勝算もあった。田舎ゆえに沿線の土地も安い。沿線の土地50万坪を買い集め、鉄道開通後に住宅地として分譲できると試算したのだ。

のちに多くの鉄道会社が真似たビジネスモデルで今では誰も驚かないが、鉄道が単なる輸送手段と捉えられていた当時としては非常に先進的なアイデアであった。

とはいえ、小林はアイデアマンではあったが、この段階に至っても事業を自分の手でどうにかしたいという意欲が旺盛だったわけではない。「所詮、サラリーマンなのだからそれなりのポジションでうまくやれないか」という気持ちが強かった。実際、設立間もないころに阪神電鉄から買収の打診があった際には「阪神電車の重役になれるのであるから、不平どころか内々期待していたのである」(前掲書)と思っていたという。