『ドラえもん』に学ぶ知識にとらわれすぎない自由な発想

先に挙げたわたしなりの経済活性策。狭量な専門家たちからすれば、門外漢の素人意見など聞くに値しないのかもしれませんが、知識にとらわれすぎると、かえって柔軟な思考ができなくなるものです。

知識にとらわれすぎない自由な発想のお手本は、わたしたちがよく知っているアニメにもあります。『ドラえもん』です。

香港で開催されたドラえもん展の展示
写真=iStock.com/winhorse
※写真はイメージです

全編「こんなこといいな〜、できたらいいな〜」の精神で貫かれていますが、もし、この作中の世界が知識に縛られていたとしたら、ドラえもんの四次元ポケットからは「ひみつ道具」は何ひとつ出てこなかったはずです。

タケコプターで自由に飛ぶという発想も、どこでもドアで「あんなとこいいな〜、いけたらいいな〜」と思う場所へ行くという発想も出てこないでしょう。

どうして多くの大人がこうした発想ができないかと言えば、既存の知識に縛られているからです。

「自由に発想してください」と言われても、まず何も浮かばない。「こんなのあったらいいな」の「こんなの」さえ想像することができない。

やっとこさ何かアイデアらしきものが出てきても、「こんなのできっこない」とか、「あり得ない空想だ」「自分のもっている知識とはかけ離れているから没だ」「かえってこんなレベルのことを人に話したら笑われる。恥ずかしい」と決めつけ、それ以上考えることはできなくなる……。

自由な発想を「面白い」と捉えられるか

こうした発想で『ドラえもん』が描かれていたら、ドラえもんは可愛さだけが売りのただのぬいぐるみにしかなれず、これほどまで多くのファンをワクワクさせることはなかったのは言うまでもありません。

現実の世界にも、自由な発想が大きな変革をもたらす例を見つけることができます。

たとえばスティーブ・ジョブズ。彼はもともと技術者ではありませんでしたから、自由に「こんなのつくれないかなぁ」と言えたのです。

もし彼が昔気質の技術畑の人間であったら、これまで蓄積された知識や経験、前例などに縛られて、その延長線上でしかものを考えることはできなかったかもしれません。

わたし自身も一見、人からはくだらないと思われるようなことを、あれこれ考えるのが大好きです。

ですから、たとえば「エネルギーをまったく必要としない永久機関みたいなものって、つくれないのかな」とか平気で考えるわけです。

こうした自由な発想を「くだらない」と言下に否定するのか、「面白いじゃん」と思えるのか。このあたりが頭の柔軟性にも非常に深く関係するとわたしは信じています。

そして、ジョブズを例に出すまでもなく、この柔軟な発想が成功のカギになる時代はもう来ていると言えるのです。