「唯一絶対の答え」を求めることで、他の思考を排除してはならない

平成の時代が終わるまで、多くの日本人はこの世に「唯一の正しい答え」があると信じ、これを追い求めてきました。

つねに誰かが「これが正しい答えですよ」と提示してくれなければ不安になってしまうという、認知的成熟度の低さとあいまって、唯一絶対と思えるものにからめ捕られてきました。

わたしは元来、勉強が好きな人間です。灘中学受験に始まって東大受験、医師国家試験などのために、ハードな勉強を重ねてきたという経緯があります。

やがて20代後半から自身の経験をもとに受験勉強の方法論を説き、社会人向け・各年齢層向けの勉強法の書籍を送り出してきました。

そうしたなかで、「わたしたちにとって勉強とはなんだろうか?」という問いかけを繰り返し繰り返し続けてきました。

そんなわたしが至ったのは、「生きるなかで遭遇するあらゆることが、すなわち勉強」であり、「勉強とは特定の限局的な知識を注入することだけを意味するのではない」ということです。

木製テーブルの上の開かれた本から生える木。知識の木のイメージ
写真=iStock.com/Chinnapong
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限局的な知識注入は、勉強という大きな括りのなかのほんの一部にすぎません。

加えて唯一絶対の答えを求める勉強は、思考の多様性を排除する。これは真の勉強とは言えないのです。

勉強で人生を楽しく幸福に出来てこそ、真の価値が出る

本来、勉強とは生きるための目的ではなく手段です。勉強したことを自分の強みとして、いかに人生を豊かにしていくか、楽しくて幸福なものにしていくか。そのために使ってこそ価値があるのです。

勉強することで多様なものの見方、考え方があることを知る。そしてまた、自らもさまざま可能性を幅広く考えられるようになっていく。

これが勉強の意義であり、勉強することによって得られる最大の果実と言っていいでしょう。

幅広い視野でものごとの可能性を考えられる人は、それだけ人生の選択肢も広くなるのです。異論反論も排除せず、「なるほど、そういう視点もあるのか」と、まずは興味深く耳を傾けることができる人こそが頭のいい人と言えます。

既知の知識に拘泥しないフレキシブルな姿勢は、精神の自由につながるのだとわたしは思います。

わたしも、もちろん本を読んだりネットを見たりしながら、知識を注入することはあるのですが、それは「正解を求める」ためでなく、いろいろな考えがあることを知るためにというふうに変わってきました。