先に惚れ込んだのは乾太郎氏、嘉子が41歳のときに再婚
乾太郎さんが先に嘉子さんに惚れ込んでいたのは事実のようで、乾太郎さんははじめ、同僚に「あの和田君(嘉子)がぼくのところへなんかきてくれるもんですか」と言っていたそうです。やがてふたりは昭和31年8月に結婚します。乾太郎さんは49歳、嘉子さんは41歳、互いに再婚でした。それは前夫・芳夫さんが亡くなってから10年の歳月が流れ、芳武さんが13歳、麻布中学の2年生になっていた頃です。
乾太郎さんは嘉子さんのどこに惹かれたのでしょうか。ふたりの出会いは、先述のように引き合わせた方がいてのものだったようですが、その前の接点として、ドラマと同様、嘉子さんは乾太郎さんの父・忠彦さんが本を出す際に手伝った一人だった、ということもありました。
さかのぼると、嘉子さんが尽力した家庭裁判所の設立に対し、当時は風当たりが強い中、理解者として、見守ってくれていたのも、最高裁長官だった忠彦さんでした。そうしたご縁もありましたので、忠彦さんが亡くなった際、嘉子さんはお悔みに行ったこともあったそうです。あくまで推測ですが、その際、お父さんにお世話になったご挨拶などを通して、嘉子さんと乾太郎さんは顔を合わせていたかもしれません。
乾太郎氏は「教養と気品のある風格を兼ねそなえた紳士」
また、忠彦さんはリベラルな方だったようですから、家庭裁判所設立のために奮闘する嘉子さんの話を乾太郎さんも聞いていたかもしれませんし、嘉子さんにも長官だった忠彦さんに対する信頼があったからこそ、その長男に対する親近感もあったのでしょう。そもそも同じ裁判官同士であるうえ、嘉子さんはまだ女性裁判官が少ない時代に赴任のニュースが出るほど有名でしたから、乾太郎さんは当然ご存じだったでしょう。
では逆に、嘉子さんは乾太郎さんのどこに惹かれたのでしょうか。私が『華やぐ女たち 女性法曹のあけぼの』(復刻版は『三淵嘉子・中田正子・久米愛 日本初の女性法律家たち』日本評論社)を書いたとき、嘉子さんの実子の芳武さんが、乾太郎さんについて嘉子さんが語ったことを話してくれました。
「母は三淵乾太郎を『処理が早いし、よく勉強する。仕事が好きなのね』と感心していました。母はもともと、勉強より遊びが好きです。仕事は『やらなければならない』という使命感でやっていました。好きではなかったのです」
また、東京地方裁判所の同僚だったという高津環さんは乾太郎さんについて、こう記しています。
「豊かな教養と気品のある風格を兼ねそなえた紳士で、……(中略)……お書きになった判例解説は、その内容もさることながら、いずれも香り高い名文で綴られており、並の法律家ではない」(『追想のひと三淵嘉子』)