天下統一でも終わらない重圧
⑦三九歳(前二二一年)で王から皇帝となり、統一を宣言して天下に君臨しようとした。これをあえて嬴政の危難の一つに数えたのは、一三歳の秦王嬴政にかかった重圧をはるかに超えるほどの、天下を治めるという重圧の只中にいたからである。
統一ですべてが終わったわけではない。旧六国の広大な領土をどのように治めていくのか、中央で議論が相次いだ。皇帝の任命した郡県の官吏で直接治めるのか、遠方の地には王を置いて治めるのか。前者の李斯の意見が通ったが、後者の丞相王綰の意見も排除されたわけではなかった。
天下の三六郡に守(行政)、尉(軍事)、監(監察)の官吏を置くといっても、それはあくまでも統一事業の目標であった。実態は秦に対する反抗に常時備えなければならなかった。
⑧四〇歳(前二二〇年)から最後の五〇歳(前二一〇年)までは、しばしば都を離れ、五回にわたる地方巡行を行った。そこでは統一に反対した旧六国の人々に襲われる危険がたえずあった。
実際に四二歳(前二一八年)、巡行に出発した直後、博浪沙の地で旧韓人の張良に襲われた。四四歳(前二一六年)、都咸陽の蘭池でも盗賊に襲われた。荊軻と懇意にしていた筑という楽器の名手・高漸離が、楽器のなかに鉛を隠し入れて始皇帝嬴政を襲ったのも、東方巡行時のことであった。
死後も始皇帝を守ろうとする戦士たち
⑨四五歳(前二一五年)以降、秦は匈奴と百越との戦争の時代に入ったことで戦時体制の危機下となり、巡行は中断した。李斯とともに推進した焚書(前二一三年)坑儒(前二一二年)の政策は、嬴政のもとの近臣たちの絆を崩していくものであった。
いままで許されていた異論が排除され、多くの者が処刑されることになった。過去の歴史に学び、現在に役立てることが、現在を批判する行動とされた。長城や阿房宮の土木工事の負担も大きかった。始皇帝嬴政に異論を唱えた長子扶蘇も、蒙恬とともに北辺に送られた。
⑩五〇歳(前二一〇年)、第五回巡行の途上で病にかかり、旧趙国の離宮の沙丘平台で息を引き取った。後継者の太子を指名していなかったことから、嬴政の死後、秦帝国全体を統率する求心力が揺らいでいった。嬴政の人間力で結束してきた将相(将軍と丞相)の近臣たちの連携も、崩壊することとなる。始皇帝の死後、扶蘇と蒙恬は自害を迫られ、やがて李斯も極刑を受け、趙高も殺された。
始皇帝の波乱に満ちた生涯を見守った戦士たちの俑が、地下に埋まっている。
一九七四年に偶然発見され、現在もなお発掘が続く八〇〇〇体と推測される兵馬俑。かれらは実に穏やかな顔をした、始皇帝嬴政の側近の戦士たちである。人間嬴政のもとに結束していた過去のよき時代の戦士たちが、死後の世界まで主人を守ろうとする気概がうかがえる。