GHQが完全解体を目指した農協が生き残った理由
この二つの組織が、第2次大戦中、統制団体“農業会”として統一される。農業会は、農業の指導・奨励、農産物の一元集荷、農業資材の一元配給、貯金の受け入れによる国債の消化、農業資金の貸付けなど、農業・農村の全てに関係する事業を行う国策代行機関だった。
終戦直後の食糧難の時代、農家は高い値段がつくヤミ市場に、コメを流してしまう。そうなると、貧しい人にもコメが届くように配給制度を運用している政府にコメが集まらない。このため、政府は農業会を農協に衣替えし、この組織を活用して、農家からコメを集荷させ、政府へ供出させようとしたのである。これがJA農協の起こりである。
GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の意向は、戦時統制団体である農業会は完全に解体するとともに、農協は加入・脱退が自由な農民の自主的組織として設立すべきだというものだった。農林省の中にも、そうした正論はあった。しかし、戦後の食料事情は、そのための時間的な余裕を与えなかった。こうして農協は農業会の「看板の塗り替え」に終わった。
世界で類を見ない「総合農協」が誕生
ヨーロッパやアメリカの農協は、酪農、青果等の作物ごと、生産資材購入、農産物販売等の事業・機能ごとに、自発的組織として設立された専門農協である。これに対し、農業会を引き継いだJA農協は、作物を問わず、全農家が参加し、かつ農業から信用(銀行)・共済(保険)まで多様な事業を行う“総合農協”となった。欧米では、日本の農協のように、金融事業等なんでもできる農協はない。
農協法の前身の産業組合法も、当初は信用事業を兼務する組合を認めなかった。戦後、農協法を作る際も、GHQが意図したのは、欧米型の作物ごとに作られた専門農協だったし、GHQは、信用事業を農協に兼務させると、信用事業の独立性や健全性が損なわれるばかりか、農協が独占的な事業体になるとして、反対していた。アメリカの協同組合に、信用事業を兼務しているものはない。アメリカから日本のGHQ本部を訪問した人たちは、信用事業を兼務する協同組合が日本にあることに、みな驚いたといわれる。
しかし、農林官僚が日本の特殊性を強調し、総合農協性を維持した。信用事業を兼務できる協同組合はJA農協(と漁協)だけであるし、信用事業と他の業務を兼務することは、農協以外には、日本のどの法人にも認められていない。