昭和恐慌を機に全農家が加入

当初産業組合は、地主・上層農主体の信用組合にすぎず、1930年の段階でも、零細な貧農を中心に4割の農家は未加入だった。

しかし、農産物価格の暴落によって、娘を身売りする農家も出た昭和恐慌を乗り切るために、1932年農林省は、有名な「農山漁村経済更生運動」を展開する。産業組合は、全町村で、全農家を加入させ、かつ経済・信用事業全てを兼務する組織に拡充された。これを農林省は全面的にバックアップした。

特に支援したのはコメの集荷と肥料の販売だった。これに圧迫されたコメ商人や肥料商人から激しい“反産(産業組合)運動”が起こされた。

昭和金融恐慌時に東京中野銀行で起きた取り付け騒ぎ
昭和金融恐慌時に東京中野銀行で起きた取り付け騒ぎ(写真=朝日新聞/『日本写真全集 10 フォトジャーナリズム』小学館/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

政府系金融機関として誕生した農林中金

農山漁村経済更生運動の大きな目標は、農民の負債整理だった。この手段として、産業組合が活用された。産業組合中央金庫は、その全国団体として設立された。半分が政府の出資によるものだった。したがって、政府系金融機関としての性格が強く、理事長以下の幹部はほとんど役人だった。これが、今の農林中金である。

産業組合中央金庫は、政府の出資金を利用して農業に低利で融資するものだったため、高橋是清蔵相は金融体系を乱すものとして設立に反対した。それを、農山漁村経済更生運動を推進した小平権一(後に農林次官)が、「あんなもの、頼母子講タノモシコウに毛が生えたようなものですよ」と煙に巻いて認めさせた。大きな頼母子講になったものである。