昔の日産の悪弊はこうして取り除く

PV第一製品開発部第4プロジェクト/リーフは電気自動車でありながら、加速などの運転性能はほとんどガソリン車に見劣りしないレベルにまで性能が上がった。充電スタンドの普及が急務だ。

門田が日産に入社したのは1982年。90年代後半の日産の経営危機も経験した。日産の中でも、電気で自動車を動かすという仕事に関わった経験は群を抜いて長い。経営危機と電気へのこだわり。こうしたキャリアが門田のリーダーシップに、大きく影響を与えている。

門田は入社してから最初の10年間は、シャーシ設計部に属して、サスペンション、アクセルなど、いわゆる車の基本的な性能を決める足回りを担当してきた。90年代に入ると環境問題が社会の注目を集めるようになり、米国カリフォルニア州のゼロエミッション規制を見据えて、自動車メーカー各社が一斉に電気自動車に取り組み始める。

門田と電気の関わりは、ここから始まる。門田は91年1月1日付で、電気自動車開発のために設けられた技術車開発室に配属になる。ここで既存の車種を改造したEVをつくったのを手始めに、リチウムイオン電池を搭載した「アルトラ」を北米向けに開発するなど、ほぼ10年間を過ごした。

そのキャリアの後半、99年には経営危機に陥った日産はフランスのルノーの傘下に入る。経営再建のためにCEOとして乗り込んできたゴーンが、かの「日産リバイバルプラン」を実施に移した。門田は一旦ガソリン車の開発に戻るが、01年から燃料電池車の開発に3年間取り組むことになる。その後も、ハイブリッド車やアイドリングストップなど、「電気とモーターを使って、燃費をよくする技術にずっと携わってきた」。そして07年の秋、リーフのCVEに任命されたのである。

まさに電気とともに歩んできた自動車開発のキャリアと言ってよい。そのキャリアの中でも「見える化」の効果を感じたのは、燃料電池の開発に取り組んだときだ。水素と酸素を反応させて電気をつくり出すのが燃料電池で、燃料電池車はこの燃料電池を搭載し、電気を起こしてモーターを回す。