武道、国家、選挙も拒否

親が輸血を拒否したことで、実際に子どもが亡くなった事例があるわけだが、なぜ親は、信仰に従うことで子どもの命を犠牲にしてしまうのだろうか。信者ではない一般の人間からすれば、そこに疑問を感じる。

ただ、そこには信教の自由の問題がかかわってくる。最高裁での判決もあり、苦慮した医学界は、それ以降、輸血拒否に対するガイドラインを設定せざるを得なくなる。18歳以上の場合には、本人の意思が優先され、拒否する場合には輸血は行わず、無輸血治療などに努力する。

18歳以下でも15歳以上であり、患者本人が輸血拒否をしている場合には、18歳以上と同じに扱う。ただし、15歳未満の場合には、信者の親が輸血を拒否しても、輸血を行うといったものである(医師会や病院では、これについて細かな規定を定めており、詳しくはそうしたものを参照)。

注目されるのは、エホバの証人が拒否するのは輸血だけではないことである。戦前の灯台社で実行に移された兵役拒否もその一つになるが、格闘技を行わない、国旗への敬礼や国歌斉唱はしない、選挙への立候補や投票など政治に参加しないといったことも定められている。学校に通う生徒が生徒会の役員に立候補することも禁じられている。

信仰を貫き通すことが達成感につながる

格闘技については、高等専門学校で問題が起きた。

1990年に神戸市立工業高等専門学校に入学した学生のなかにエホバの証人の信者が5人いて、彼らは剣道の授業の受講を拒否した。

イザヤ書2章4節に「彼らはその剣をすきの刃に、その槍を刈り込みばさみに打ち変えなければならなくなる。国民は国民に向かって剣を上げず、彼らはもはや戦いを学ばない」とあるからである。

そのなかに進級できず、退学になった学生がいて、彼らは学校側の進級拒否、退学処分は不当であると裁判に訴えた。一審では、原告となった元学生の訴えは棄却されたが、高裁と最高裁では訴えが認められた。他の学校では代替措置が講じられており、それを認めないのは、学校の側の裁量権の範囲を超えた違法なものだというのである。

こうして、憲法で保障された信教の自由により、輸血拒否にしても武道の授業の拒否についても、エホバの証人の側の主張が認められた。社会が求めてくることについて、信仰にもとづいて拒否することは、信者にとっては試練である。輸血の場面に遭遇すれば、命がかかわっているわけで、相当に厳しい決断を必要とする。

しかし、状況が厳しいものであればあるほど、信仰を貫き通すことが、信者にとっては大きな達成感になる。そして、そうした経験を経ることで、よりいっそう信仰は強化されていくことになる。逆に言えば、教団の側は、信者の信仰を強化するために、さまざまな禁制を用意していることになる。そこに、エホバの証人の大きな特徴がある。