先生と呼べるのはただ一人だけ

「どうせなら、福澤諭吉先生の1万円札が永久に続けばベストなのですが」と前出の連合三田会役員は福澤紙幣の終焉を残念がる。

いくら特別な存在といっても、どうしてここまで福澤にこだわるのか。

明治24年(1891年)頃の写真
明治24年(1891年)頃の写真。日本銀行発行紙幣の原画となる。(画像=福沢研究センター/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

「特別を超えて、唯一無二といったほうが正しい。福澤先生が点だとすると、そこから塾員・塾生たちはそれぞれ均等な線で結ばれているのです」と同役員は説明する。塾員も塾生も福澤のもとでは横並びということなのだ。

学生たちに授業がなくなったことを知らせる時、教務の掲示板には「○○君休講」という紙が貼られる。○○君とは授業を行う講師のこと。慶應では「先生」と称されるのは福澤だけなのである。

福澤の門下生は次の門下生を育て、代々受け継がれていく。つまり、起点の福澤以外はすべて門下生であり、「君付け」で呼び合うのが慶應のならわしなのだ。「とはいえ、実際に学生から君付けで呼ばれたことは一度もなく、先生と呼ばれています」と証言するのは前出の文系教授だ。

「ともかく、福澤諭吉先生が唱えた“半学半教”は今も生きているということです。教員は教えるだけでなく、学生から学ぶ立場でもある。君付けもそうした精神から来ているのです」

福澤が唱えた精神で最も慶應のブランド力を高めるのに寄与しているのは“社中協力”だろう。塾員、塾生、教職員らすべての慶應関係者が助け合うことで、日本を代表する学問の府であり続けられるというのである。

「単純にいえば、慶應同士でつきあいを広げていこうと福澤先生はおっしゃっている。三田会がこれだけ発展したのも、社中協力の精神が原動力になっている」(連合三田会役員)

現在、連合三田会に登録されている団体は880を超える。未登録のものまで含めれば、「三田会と名乗る団体は少なくともその倍以上はあると推測される」(同)という。何しろ「塾員が3人集まれば三田会」なる言葉もあるほどで、国内外の各地で福澤諭吉に思いを至らせながら次から次に新しい団体が組織されているのだ。