第四次中東戦争…エジプト軍の奇襲攻撃とイスラエル軍の油断

この大勝利で慢心したイスラエルに対して、1973年10月6日、エジプトがシナイ半島に、シリアがゴラン高原に奇襲攻撃を仕掛けた。アラブの軍事力を過小評価し、油断していたイスラエル軍は後退を余儀なくされた。

開戦の日がユダヤ教の祝祭日、ヨム・キプールの日であったため、ヨム・キプール戦争と呼ぶが、これが第四次中東戦争である。しくも50年後に、ハマスがイスラエルに奇襲攻撃を行っている。

10月11日以降、イスラエルは反撃に出て、ゴラン高原を再占領した。また、シナイ半島でも中間まで戻し、エジプト軍を包囲する勢いとなった。この時点で、国連安保理は、10月22日に停戦を求める決議338号を採択した。25日には国連安保理決議340号が採択され、停戦監視のため国連緊急軍が編成された。

緒戦で成果を収めたエジプトのサダト大統領は、イスラエルにシナイ半島の返還を要求した。また、アラブの産油国は、イスラエルに対抗するために石油を政治的武器として活用する。

アラブ石油輸出国機構(OAPEC)が原油価格を引き上げるとともに、イスラエル支持国への石油禁輸も決め、第一次石油危機となり、世界経済を直撃した。停戦によって、シナイ半島はエジプトに返還される見通しとなったが、ヨルダン川西岸やガザ地区からのイスラエルの撤退は認められなかった。

和平への試みはなぜ挫折したのか

第三次中東戦争の後イスラエルに対してPLOがゲリラ闘争を展開したが、1970年9月、ヨルダンはPLOが王制にとって危険と判断した。そこでヨルダン政府はPLO排除を決め、難民キャンプなどを襲撃し、ヨルダン内戦となった。PLOのアラファト議長はヨルダンの難民キャンプを拠点としていたのである。PLOは拠点をレバノンに移した。

PLOはテロ活動を活発に行った。たとえば、1972年9月にはミュンヘン・オリンピックを襲撃している。

1973年の第四次中東戦争の結果、1974年のアラブ首脳会議は、PLOをパレスチナ唯一の代表として認めた。また、ヨルダンがヨルダン川左岸の統治権を放棄したため、PLOはそこに国家を建設する計画を実施に移そうとした。

レバノンでは、拠点を移したPLOに対して、キリスト教マロン派(レバノンで影響力のあるキリスト教の一派)などが反発し、1975年4月にレバノン内戦が始まった。この内戦にシリアも参加し、PLOを攻撃した。

そのような状況下で、エジプトのサダトは政策の大転換を図る決意を固める。サダトは、1977年にイスラエルを電撃訪問し、クネセット(議会)で演説した。1978年9月には、イスラエルのベギン首相とエジプトのサダト大統領が、アメリカのカーター大統領の仲介によって、大統領別荘のキャンプ・デービッドで12日かけて会談した。

1978年9月、握手を交わすイスラエル首相メナヘム・ベギン氏とエジプト大統領アンワル・サダト氏、中央は米国大統領ジミー・カーター氏
1978年9月、握手を交わすイスラエル首相メナヘム・ベギン氏とエジプト大統領アンワル・サダト氏、中央は米国大統領ジミー・カーター氏(画像=US govt. archives/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons