イスラエル建国と第一次中東戦争の勃発

第二次世界大戦が終わると、委任統治国のイギリスは、パレスチナ問題の解決を国連にゆだねた。国連は、1947年11月、パレスチナを分割してユダヤとアラブの二つの国家を作る決議(パレスチナ分割決議)を採択した。土地の面積では、前者が56%、後者が43%の比率であった。残りの1%は、国連管理の中立地帯でエルサレムとベツレヘムなどであった。

この分割案をユダヤ人は歓迎したが、アラブ人は反対を表明した。ユダヤ人は1948年5月14日にパレスチナにイスラエル国家を建国し、シオニズムは目的を成就した。しかし、その結果、居住地から追い出された数十万人のパレスチナ人は難民となってしまった。パレスチナ人にとっては、「ナクバ(大厄災)」の日である。

イスラエル建国に反対するエジプト、サウジアラビア、イラク、シリアなどアラブ諸国は、翌日イスラエルに侵攻した。これが第一次中東戦争であるが、戦争はイスラエルの勝利に終わり、翌年6月に、国連の仲介で停戦が成立した。

イスラエルは、パレスチナに国連分割決議以上の領土を確保し、国家を建設した。アラブ側については、東エルサレム(旧市街)を含むヨルダン川西岸がヨルダンに、ガザ地区がエジプトに分割された。

くすぶり続ける双方の不満

イスラエルは、「嘆きの壁」があり、ユダヤ教の聖地であるエルサレム旧市街を獲得できなかったし、アラブ側は大幅に領土を減らし、多くの民が難民となった。こうして双方に不満が残り、その後の対立と紛争の源となった。

嘆きの壁
嘆きの壁(画像=Golasso/CC-BY-SA-4.0,3.0,2.5,2.0,1.0/Wikimedia Commons

1951年までにイスラエルの人口は140万人に増えた。一方、敗戦したアラブ諸国では、体制批判が強まり、1952年7月にはエジプトでナセルらの「自由将校団」が革命を起こし、王制を打倒して、共和制に転換した。

エジプトは、ナイル川の氾濫はんらんに対処するため、1952年、イギリスの援助によるアスワン・ハイ・ダムの建設を計画した。革命のため、これは中止となったが、政権をとったナセル大統領は計画を再開し、英米の支援を取り付けた。

しかし、ナセルはソ連とも接近したため、アメリカはそれに抗議して、1956年7月19日に支援中止を通告した。そこでナセルは、財源を確保するため、同年同月にイギリスが管理するスエズ運河の国有化を宣言したのである。

イギリスはこれに反発し、スエズ運河の管理権維持のためにナセル政権の打倒を図り、アメリカに協力を求めた。しかし、アメリカはそれを拒否したため、イギリスはフランスと共同軍事行動を起こすことを決め、イスラエルも仲間に引き入れたのである。フランスは、アルジェリア戦争で独立勢力を支援するナセルを排除するのに賛成であった。