ロシアによるウクライナ侵攻は、2年以上が経過しても収束の見通しが立っていない。なぜプーチン大統領はウクライナに固執するのか。国際政治学者・舛添要一さんの新著『現代史を知れば世界がわかる』(SB新書)から侵攻に至った経緯を紹介しよう――。
労働・社会保護大臣と会談するプーチン大統領
写真=Gavriil GRIGOROV/POOL/AFP/時事通信フォト
労働・社会保護大臣と会談するプーチン大統領(2024年4月10日、モスクワ)※この画像はロシアの国営通信社スプートニクが配信したものである。

なぜロシアは「領土拡大」に執念を燃やすのか

1206年にモンゴル帝国を建国したチンギス・ハンは、次々と領土を拡大していった。第2代皇帝オゴデイ・ハンの時代にロシアを攻め、1237年にはモスクワを陥落させた。ロシアは、1480年までの約240年間にわたって、モンゴルの支配下に置かれたが、これを「タタールのくびき」と呼ぶ。

この2世紀半にわたる隷従の体験が、ロシア人のその後の考え方や生き方に大きな影響を与えたのである。

陸続きのユーラシア大陸を席巻する騎馬民族に蹂躙じゅうりんされたロシア人は、外敵に対して異常なまでの警戒心を抱き、安全保障を重視するようになった。ロシア人が、ソ連邦崩壊後にNATOの東方拡大を警戒したのは当然である。

ロシアにとって、隣国のベラルーシとウクライナは国境を接する最後の砦であり、絶対に敵には渡さないとプーチンは決意した。

ベラルーシは親露派のルカシェンコ政権であるが、ウクライナは反露・親西欧のゼレンスキー政権になった。そのため、プーチンの危機感は募り、2022年2月24日にウクライナに軍事侵攻したのである。

他国を侵略する行為は国際法上許されるものではないが、軍事侵攻を決意するまでの心理状態を説明すれば、以上のようになる。

プーチンが称えるピョートル大帝の業績

モスクワ大公国のイヴァン3世は、1480年にキプチャク・ハン国への臣従を破棄して、「タタールの軛」からロシアを解放する。その孫が雷帝と呼ばれるイヴァン4世である。領土の拡張を試みるが、期待通りの成果を得ることができず、雷帝の死後、ロシアは不安定な「動乱時代(スムータ)」となり、対外戦争に負け、多くの領土を失った。

ピョートル大帝
ピョートル大帝(画像=/Hamburger Kunsthalle CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

1613年にロマノフ朝が始まるが、1694年にはピョートル1世(大帝)が親政を開始し、西欧化・近代化を推進するとともに、ロシア領土を拡大し、ロシアを大国にしていく。プーチンは、このピョートル大帝の業績を称え、ウクライナ侵攻を「領土を奪還する」ための戦いだと正当化するのである。

1917年、レーニンがボリシェヴィキ革命を成功させ、ロマノフ朝が倒れた。このロシア革命は第一次世界大戦中に起こったが、レーニンは革命政権を安定化させるために戦争を早く終わらせようとし、ドイツと11月後半からブレスト=リトフスクで停戦交渉を開始した。

ウクライナでは、当時は中央ラーダ(評議会、ロシア語のソヴィエト)が権力を握り、反ボリシェヴィキの方針を貫いた。11月20日には「ウクライナ人民共和国」として事実上の独立を宣言し、12月17日にはボリシェヴィキと戦争状態に入った。