それに怒った親欧米派の市民が、キーウ(キエフ)中心にある「独立広場」などで反政府デモなどの抗議活動を繰り返し、大混乱になった。その結果、2014年2月にヤヌコーヴィチ大統領は国外に逃亡した。

これがマイダン革命であるが、親露派の多く住む東南部では、この動きを認めず、ロシアとの協力関係を重要視してウクライナからの分離を求める人々が立ち上がった。

プーチンは、この親露派の動きを支援し、「分離独立派の希望に応えるため」に、3月にはクリミアを併合した。

ウクライナ侵攻前から続く親欧米派と親露派の抗争

こうして、親露派とウクライナ政府側(親欧米派)との間で武力闘争が行われる深刻な事態となっていった。

クリミア、ドネツク、ルハンシク(ルガンスク)、オデーサ(オデッサ)、ザポリージャ(ザポロージエ)、ハルキウ(ハリコフ)、ドニプロペトロウシク(ドニプロペトロウスク)では親露派勢力が多く、NATOやEUではなく、ロシア主導の関税同盟への加盟を求める声が強かった。一方、西部、中部の親欧米派地域では親露派とは反対に、EUやNATOへの加盟を支持する人が多数だった。

ただ、ウクライナが分裂せずに一つの国家として存続すべきだという考えの人が、どの地域でも最も多かったことは記しておこう。

親露派陣営の過激派は暴力行為に訴え、ウクライナ政府側はそれに対抗するために軍隊を出動させた。3月、4月と対立抗争は激化し、ドンバス地域(ドネツク州とルハンシク州)では内戦の様相を呈し、ドンバス戦争とすら呼ばれたのである。

フレシャティク通りを通過するウクライナ軍の車両
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親露派の分離独立派は、4月7日にはドネツク人民共和国(DPR)を、4月27日にはルガンスク人民共和国(LPR)の樹立を宣言した。しかし、その後も、親露派の分離独立主義勢力とウクライナ政府軍との間で、激しい戦闘が続いていった。

欧米、EU、ロシアが話し合っても内戦収束は不可能だった

このような状況を危惧して、4月にウクライナ、アメリカ、ロシア、EUがジュネーブに集まり、ウクライナの違法な武装集団の武装解除、違法占拠した建物の返還などの措置をとることで合意した。そして、OSCE(欧州安全保障協力機構)の特別監視団が、その措置の実施を監督することになったが、内戦は収束しなかった。

ウクライナ、ロシア、OSCEに、ドネツク人民共和国、ルガンスク人民共和国の代表が加わり、7月31日、8月26日、9月1日、9月5日に会議が行われ、9月5日にベラルーシの首都ミンスクで議定書の調印にぎ着けた。議定書は12項目からなり、即時停戦、OSCEによる停戦監視、ドネツク・ルガンスクの地方分権の確保、ウクライナ・ロシア国境セキュリティゾーンの設置、捕虜の解放、ドンバスの人権状況の改善、違法な武装集団の解散などが決められた。

しかし、議定書調印後も停戦違反が続発し、さらに関係者で議論が続けられ、覚書が9月19日に調印された。国境線から15km内での重火器の撤去など、議定書の内容を具体化した。