エジプトをアラブ世界で孤立させた「キャンプ・デービッド合意」
その結果、両者は、エジプトはイスラエルを承認し国交を開くこと、そしてイスラエルはシナイ半島をエジプトに返還し、ヨルダン川西岸とガザ地区でのパレスチナ人の自治について交渉することで合意した(キャンプ・デービッド合意)。こうして単独和平を達成し、1979年3月26日にはイスラエルとエジプトの間で平和条約が締結されたのである。
しかし、この画期的な合意は、他のアラブ諸国やPLOによって厳しく断罪され、エジプトはアラブ世界で孤立した。サダトは、イスラム復興主義の過激派によって、1981年10月6日に暗殺された。
キャンプ・デービッド合意に加え、後述するようにイラン革命、イラン・イラク戦争によって、アラブ諸国が団結してパレスチナ人を支援する構図は崩壊した。
エジプトとイスラエルの和平は成立したが、双方の原理主義的過激派は、それを認めようとせず、武装闘争を止めなかった。アラファトに率いられるPLOは、レバノンからイスラエルを攻撃したため、イスラエルは1982年6月、PLOに反撃するためレバノンに侵攻した。追い詰められたPLOは本拠地をチュニジアに移したが、影響力を失ってしまい、イスラエルとの和平を模索せざるをえなくなった。
1987年12月、ガザ地区のパレスチナ人は、武器を持たず、投石などによるイスラエルへの抵抗を試みた。これをインティファーダと呼ぶ。
1990年8月、イラクのサダム・フセイン大統領はクウェートに侵攻し、これにアメリカが反撃し、湾岸戦争が起こるが、アラブ諸国間での戦争であり、アラブの団結は乱れた。PLOはイラクを支持したため、アラブ世界での孤立が深まった。
オスロ合意と過激派の台頭
1993年9月13日、ノルウェーの仲介で、オスロ合意が成立し、イスラエルのラビン首相とPLOのアラファト議長は、「パレスチナ暫定自治協定」を調印した。
その内容は、両者は相互に承認し、PLOはイスラエルの生存権を認め、またテロを放棄するというものであった。そして、暫定自治宣言によって、ヨルダン川西岸とガザ地区にパレスチナ暫定自治政府が樹立され、着実にパレスチナの自治の拡大へと進むことが期待された。
しかし、イスラエルでもパレスチナでもオスロ合意に反対する過激派が武器を置かなかった。そしてイスラエル軍の撤退が予定通りに進まなかったり、新規にユダヤ人の入植地が作られたり、ユダヤ人過激派がパレスチナ人を攻撃したり、イスラム過激派によるテロや民衆のインティファーダが頻発したりと、和平への道のりは遠くなっていった。
パレスチナではPLOの和平路線に反対する過激派のハマスが台頭し、自爆テロなどを繰り返した。またイスラエルでもリクードなどの右翼の強硬政党が勢力を伸ばした。オスロ合意に導いた労働党のラビン首相は、1995年11月4日にユダヤ教徒の急進派に暗殺された。