2001年3月に、リクード党に所属する強硬派のシャロンがイスラエルの首相に就任した。9月にはアメリカで同時多発テロが起こり、アメリカはアフガニスタンに侵攻した。シャロンは2002年3月、パレスチナ自治区に侵攻し、アラファト議長を軟禁した。
ハマスによるイスラエル奇習攻撃の伏線
アラファトは2004年11月に死去し、アッバスが後継者となった。この間、リクード党内で右派のネタニヤフが台頭するが、シャロンは、対抗上、路線を転換した。具体的には、パレスチナ人国家の存在を認め、ガザからのイスラエル軍の完全撤退を決め、2005年8月にはそれを実行した。
しかし、イスラエルはヨルダン川西岸で入植を進め、入植地に壁を建設してパレスチナ人の排除を続けた。このような状況に、過激派のハマスが勢いを増し、2006年1月のパレスチナの総選挙で第一党に躍進した。
アッバスが率いるPLO主流派のファタハはハマスの首相就任を拒否し、ハマスと対立した。その結果、ヨルダン川西岸はファタハ、ガザはハマスが統治するということになった。
シャロン首相が2006年1月に病魔で倒れたため、右派の力が高まり、7月にはイスラエル軍が、レバノン南部を拠点とするシーア派武装組織ヒズボラを攻撃するためにレバノンに侵攻した。12月には、ガザを空爆し、ハマスもこれに応戦した。
こうして双方で二国家共存を否定する過激派が勢力を拡大し、オスロ合意は破綻した。2021年5月10日には、ハマスがガザからイスラエル軍にロケット弾を発射し、イスラエル軍がこれに報復した。この戦争は、エジプトの仲介で5月20日に停戦した。
そして、2023年10月7日、ハマスはイスラエルを奇襲攻撃したのである。