「これこそが答えだ!」というロジック

少し回り道をしたいと思います。デイル・ドーテンさんの『仕事は楽しいかね?』のなかには、いくつか興味深い記述がありますので、いくつかピックアップしてみます。

「『きみの考える、成功のための戦略を話してくれ――栄達のためのきみの哲学を』マックスが強い調子で尋ねた。自己啓発書は山ほど読んできたが、これぞという戦略はなかった」(ドーテン、26p)
「マックス・エルモアが、他人にじっくりものを考えさせる方法を知っている人だということは、認めざるを得ない。もっとも、彼の考え方は極端だし、展開もあまりに速いが。ただ、この点は私もたしかにとうなずけた。自分が試した、あらゆる自己啓発ツールは、何も生み出さなかったということを」(42p)

「模範的な人に話を聞くと、彼らは往々にして自分の歩んできた道のりを整然と語って、プロフェッショナルとはかくあるべき、みたいに思わせてしまうんだ――別な表現をすれば、それこそが成功への決まった方法であるかのように思わせてしまうってこと。(中略)成功するためのルールはみんな知っている。そうしたルールは、何百という本の中にリストアップされているからね。だけど、やっぱりこの問題がある。小説を研究しても小説家になれないように、成功を研究しても成功は手に入らないという問題が」(74-75p)

「斬新で素晴らしいアイデアが出てくれば、みんながそれに飛びつく。だれも彼もがだ。そういう人たち一人ひとりに何が起きていると思う? 彼らはね、他人を凌駕する人材になろうとしているけど、それを他人と同じような人間になることで達成しようとしているんだ」(80p)

また沢山引用してしまいましたが、ここには、自己啓発書を多く読むような人々への皮肉が書かれているように思えます。自己啓発書は役に立つものなのか、単なる人真似をさせるだけに過ぎないのではないか、と。

西多さんの著作でも、「『人間努力すれば不可能はない!』と叫んだ自己啓発の著者もいたかもしれません。しかし、無謀な目標で苦しんでいるときには、『もうちょっと現実的な目標を考えたら』と、高校の進路指導の先生のような視点も、やはり必要になってくるのです」(西多、78p)という、他の啓発書への批判とも見られるような言及がありました。

このように、自己啓発書においてはしばしば、第3テーマ「年代論」でとりあげたような世の中一般の人々への批判だけではなく、他の自己啓発書への批判が登場します。しかしながら、ドーテンさんの著作にしても、西多さんの著作にしても、私がそれらを見つけたのは書店の「自己啓発」「ビジネス」の棚でした。これもまた大きな矛盾ですよね。自己啓発書の棚に並んでいる書籍に、啓発書は役に立たない、啓発書というものはしばしば無理を言っているということが書いてあるのです。では、私が今まさに手に取っているこの啓発書は?

整理します。「これが答えだ!」というメッセージを与えてくれる自己啓発書が多数出版されることは、書籍間の矛盾がますます増えていくことを意味します。個々人にとっても、啓発書を複数読むことは書籍間の矛盾に直面することを意味します。形式的に考えれば、矛盾に直面することによって、求める「答え」が以前よりもっと分かり難いものになってしまうように思えます。

とはいえ、実際のところ、多くの人にとっての自己啓発書の読み方はより柔軟なものでしょう。複数の啓発書を手に取ったとしても、そのうちのひとつを「教典」のようにする人もいれば、それぞれの啓発書のいいところをつまみぐいして使えるものを使う人もいるでしょう。それらは読み手の自由に委ねられています。

しかしそれとて、結局は自分自身でどの啓発書をどう使うかという問題が残されることになります。回りまわって、「結局は自分の考え方次第だね、使う自分次第だね」というところに戻ってくるとすれば、自己啓発書というものは一体何なのでしょうか。

私自身はまだこの点について明確な答えを出せてはいないのですが、少なくとも、このような堂々巡りになっている構造――にもかかわらず、「これこそが答えだ!」「これまでにない啓発書が出た!」と、これまで述べてきたような矛盾の「解消」が次々に喧伝される構造――こそが、自己啓発書ブームが続くためには必要なのかもしれません。

さて、次回は自己啓発書が求める「つながり」のあり方について考えてみたいと思います。