大河ドラマで染谷将太が演じる喜多川歌麿も罰を受けた
江戸時代後期の浮世絵師として著名な喜多川歌麿も、寛政の改革の煽りを受けた芸術家の1人です。歌麿は年少の時より絵を鳥山石燕に学び、安永4年(1775)頃、浮世絵師としてデビューを飾ったと言われています。「べらぼう」においては、「麒麟がくる」(2020年)で織田信長を演じた染谷将太さんが歌麿役です。当初は黄表紙や洒落本の挿絵などを手掛けていた歌麿に転機が訪れたのは、天明年間の初め頃とされます。
人生の転機となったのは、蔦屋重三郎との出会いでした。重三郎は歌麿の才能を見抜き、豪華な彩色刷の狂歌絵本や美人錦絵などを発表させたのです。女性の半身像を大きく描いた「大首絵」シリーズは、現代に至るまでも高く評価されています。
得意の美人絵を禁じられた歌麿は失意のうちに死んだ
美人画の第一人者とされる歌麿ですが、寛政5年(1793)には、風紀が乱れるということで、絵の中に町娘の名を記載することが禁じられてしまいます。歌麿は女性の名を記す代わりに、絵から名前を推測させる判じ絵を描き入れるなどの工夫をしたのですが、この判じ絵も禁じられることになるのです。
寛政12年(1800)には「美人大首絵」までが禁止されてしまいます。寛政年間の後半になると、歌麿が描く画題も美人画が減っていったとされます。そして文化元年(1804)、豊臣秀吉を主人公とした『絵本太閤記』を題材とした歌麿作の錦絵(太閤五妻洛東遊観之図)が幕府からとがめられ、彼は手鎖刑を受けることになるのです。2年後、歌麿は亡くなりますが、失意のなかの死であったと言われています。
松平定信の精神やその政策の中には優れたところも多いのですが、この出版統制令に関しては愚策と言うことができると思います。定信の極度の緊縮政策は「白河の、清きに魚もすみかねて、元のにごりの、田沼こいしき」などの落首に象徴されるように、庶民の反発をかいました。寛政5年(1793)、定信は老中を辞職することになります。
参考文献
・藤田覚『松平定信』(中公新書、1993年)
・松木寛『蔦屋重三郎』(講談社、2002年)
・高澤憲治『松平定信』(吉川弘文館、2012年)