強制力のある転属で「異文化」を吸収する
ソニーが1966年から続けている「社内募集制度」でこれまでに異動した社員の総数は5800人に上る。
「社内から人材を公募する『社内募集制度』の目的のひとつが社員のチャレンジマインドの尊重なんです」と人材開発部の池山一誠は説明する。毎月、新規事業立ち上げのプロジェクトチームなどが社内ネット上に人材募集について告知する。条件を満たした社員なら誰でも応募できる。池山は続ける。
「特徴はなんといっても強制力があること。応募の際、上司に報告する必要はありません。優秀な人材ほど上司は手放したくないものです。でも、それでは社員個人が思うようなキャリアデザインを描けない。適材適所の人材配置。重要ビジネスの強化。そして社員のチャレンジ精神の後押し。会社と社員双方が成長するための方策なんです」
漆原映彦(31歳)は、入社以来4年間、ブルーレイレコーダーなどのソフトウエアのエンジニアとして働いてきた。「社内募集制度」を活用して、ウォークマンやカーナビを担当するパーソナルデバイス事業部門の企画に移ったのは、08年1月のことだ。
技術から企画へ――。自らの意思で実現した漆原は動機をこう語った。
「ソニーはものづくりのメーカー。ものづくりに関わっていく以上、1度は企画の立ち上げから製品の販売、お客さまの反応までの一連を経験しなければと考えたんです」
ずっとエンジニアとして働いていくんだろうな。学生時代から漆原は漠然とだがそう考えていた。意識が変わったのは、入社してすぐのことだった。
毎年20万人近くが来場する展示会「シーテックジャパン」で、3年間、説明員を務めた。ふだんの仕事でユーザーに接する機会は滅多にない。ソニーの商品は人気が高く様々な質問が寄せられた。漆原が開発に携わったブルーレイレコーダーの画質、音質、操作性……。思いもしなかったような細かな設定がユーザーを惹きつける。エンジニアの漆原が「こんなところにまで」と感心するほどだった。
「そして気がついたんです」と漆原は続ける。「大学時代からソフトウエアの研究をしていましたが、ユーザーの目線はほとんど意識してこなかった。エンジニアの目線でしか物事を見られなくなっていました。企画部門で働けば、違った目線で物事を見ることができるかもしれないと思ったんです」。
企画の現場は、漆原にとって「異文化」だった。極端にいえば、エンジニア時代はコンピュータに向き合う時間がほとんどだったが、企画の仕事は人間関係がすべてだ。「コスト管理」「マーケティング」など、いままで関わりの薄かった専門用語が飛び交う。
ソフトウエアに限定的に関わるだけだったエンジニアとは違い、企画は最初から最後までひとつの製品とつき合っていく。製品に向き合う時間は格段に長い。
メキシコで販売するカーナビを担当した。企画を立ち上げ、仕様や設定を考えて販売会社と話を詰めていく。スタートから約1年後。スペイン語のプレスリリースや広告が出た。何と書いてあるかは読めなかったが、眺めているとじわりと感慨が湧いてきた。
「製品が世に出るまでの全体の流れが見えてきました。最近ではコンビニで菓子やジュースを見てもパッケージの工夫が気になる。いままでは家電の新商品が発売されても、スペックや性能にしか目がいきませんでしたから」
いま漆原は、海外でのマーケティングに関心を持っている。たとえば、日本では音楽プレーヤーに高音質を求める顧客が多い。けれども中南米では音量がもっとも重視される。文化が違えば、必要とされる性能も売り方も変わる。ここまで違うのか……。異文化に飛び込んだからこそ、漆原のキャリアプランは広がりを持った。
「エンジニアに戻り、企画での経験を活かしたいという気持ちもある。マーケティングも勉強したい。社外に飛び出すという選択肢もある。自分の能力をどう高めていくか。4、5年のスパンで身の振り方を考えていきたい。いまも『社内募集制度』の求人は毎月欠かさずチェックしているんです」(文中敬称略)
(※すべて雑誌掲載当時)