42歳で大学院へ「やらなければ後悔」
柿本尚志(57歳)は都市銀行に勤めながらも、転身した将来のイメージを鮮明に思い描いていたという。それは、黒板を背にして教壇に立ち、学生たちに講義をする大学教員としての自らの姿だった――。
「将来のビジョンが決まっているということは出口が見えているということですよね。あとは、出口に向かうためにいつどの入り口の扉を開けるか。闇雲に進んでもうまくいきませんよ」
42歳にして都市銀行を退職して大学院へ。柿本は、無謀とも思えるチャレンジをそう振り返った。
78年、同志社大学を卒業後、大和銀行(現りそな銀行)に入行した。当初から定年まで勤め上げるという選択はなかった。いつかは転職しようと漠然と考えていた。でも「負け犬のような辞め方だけは絶対にすまい」と決めていた。できるだけ早く管理職に昇進するのが、当面の目標になった。
担当は不動産。宅地建物取引主任者や不動産コンサルティング技能登録者などの資格を取って実績を挙げた。管理職昇進は11年目。順調な出世だったが、喜びはなかった。内心では、「これでいつでも辞められるな」とホッとした。
96年、銀行を退職して大阪府立大学大学院経済学研究科に入学する。
「短期決戦ではダメだと考えていました。必要なのは、経済的、精神的な準備。そして、タイミング」
タイミングはバブルの崩壊。環境の変化が背中を押した。当時、勤務していた支店の不良債権問題は深刻だった。後始末のような仕事に忙殺された。培ってきた経験が発揮できない。辞めようと自然に思えた。退職願を提出するきっかけを窺っていた。
ところが、本部の部長代理に抜擢される。柿本は「正直、困りましたね」と苦笑いする。銀行員生活を締めくくるつもりで退職を1年、延ばした。
「おまえが組織に必要な人間だ」「考え直してくれ」……。どんな言葉で引き留められても心は動かなかった。誰かがいなくなれば代わりの人材が出てくる。18年もの銀行員生活で何度も貯金と退職金に加え、マンションや車を処分すると約3000万円になった。学究の道が自分に合うか、探りも入れた。在職中に不動産や住宅関係の学会で調査報告をしたり、セミナーのパネリストを務めたりした。
大学院では一回りも若い学生たちと机を並べた。柿本自身、大学教員への道を踏み出したときから、年齢的なハンディキャップは覚悟していた。大学関係者は、「あと5年早かったら転身もスムーズにできたのに……」と口を揃えた。オーバードクター時代には失業状態も経験し、経済的に苦しんだ。
現在、大阪商業大学や龍谷大学など5つの大学で非常勤講師として教鞭を執る。05年から3年間は同志社大学商学部の専任講師を務めた。いま、常勤での勤務予定はないが、柿本の言葉に後悔の口跡はない。
「銀行の営業と一緒ですよ。商品が私自身に変わったくらい。粘り強くやっていけば、なんとかなるものです。銀行に残り続けたらきっと悔いが残ったはず。チャレンジして、かつて思い描いていたイメージは実現できた。いまは本当に充実しているんですよ」
柿本のキャリアプランは周到な計画と準備、そして覚悟があってこそ実現したものだろう。それは特異なケースではない。
将来に向かって踏み出した一歩が、新たなキャリアを切り拓いていくのだ。(文中敬称略)
(※すべて雑誌掲載当時)