ドラッカー賞賛の「偏り」が始まる

このように、雑誌記事においても、書籍の動向と同様に、ドラッカーのマネジメント論が多種多様な分野に応用され、『もしドラ』の後を追ったアニメ絵の記事が追随するという状況になっています。つまり、雑誌メディアにおいても、ドラッカーに言及することの「閾値」が劇的に下がったこと、これが『もしドラ』以後に起こったことではないかと考えます。

しかしながら、その活用のあり方、つまりドラッカーあるいは『もしドラ』の語られ方、使われ方はそれ以前と大きくは変わらないように思えます。「経営の神様」としてのドラッカーに学ぼう(何でも知っている神様に教えを乞おう)、「経営学の金山」としてのドラッカー鉱山を掘り起こそう(そこには必ず金脈がある)、「コード(暗号)」としてのドラッカーを読み解こう(そこには真実が必ず隠されている)、というスタンスです。前二者が50年近く前から言われていることを考えると、私たち日本人にとってのドラッカーとは、常に真理の象徴として立ち現れ続けていたのだと理解することができます。

もう少し言えば、私たち日本人は、ドラッカーという人物を通して常に真理を求め続けてきたのだと言えます。そしてその切望の度合は、近年の記事の増加を単純に捉えるならば、ますます高まっているのではないでしょうか。これだけ価値観が多様化し、各界における流動性が高まっているにもかかわらず――いや、それだからこそ――私たち日本人はドラッカーにますます「一なる真実」を求めるようになっているのです。

さて、『もしドラ』に話を少し戻します。同書の扱われ方は、ビジネス誌においては専ら、一般誌においても大体が賞賛の記事や、「なぜ売れたのか」ということを岩崎さんや上田さんに聞くといった記事で占められています。その一方で、批評的な記事は、それ以前のドラッカー自身の著作がそうであったように、ビジネス誌以外における寸評で軽い皮肉が当てられるという程度に留まっています。その内容はたとえば、ストーリーに納得できない、アイデアはいいがライトノベルとして見ると質的にはどうか、内容よりもマーケティングの意図ばかりが透けて見える本だ、といったものです。

いずれにせよ、こうした全体的には賞賛の大合唱が(少なくともマスメディア上では)なされ、一部にのみ批評が見られるという構図もまた、それまでのドラッカーの語られ方そのものをなぞり直しているように思えます。

さて、今年になり、ようやくまとまった『もしドラ』批評が現れました。経済学者の江上哲さんによる『「もしドラ」現象を読む』(海鳥社、2012)です。それ以前にも社会学者の樫村愛子さんが社会学と精神分析の観点から『もしドラ』の分析を行っていましたが、実際の分析パートは17ページの論文のうち、冒頭の4ページ程度に留まるものでした(「『もしドラ』のストーリーテリングとマネジメントの社会学/精神分析学」『現代思想』2010.8)。江上さんはそれに対し、1冊まるごとを使って『もしドラ』の批評を行っています。

江上さんの主張はシンプルで、論理よりも感動を重視する『もしドラ』のストーリーは、内面や関係性に事象の原因を還元することで、組織の問題が社会構造的背景を持つことや、現代社会が抱える問題から目を背けさせるような、欺瞞的な構造になっているのではないかというものです。そしてこうした内容を有する『もしドラ』の読者の一部には、個性や感動を求める「下流」(三浦展『下流社会――新たな階層集団の出現』光文社、2005)層の若者がおり、同書はそのような若者を再生産しているのではないかとも言います。

江上さんの主張は、その論拠とされている三浦さんの知見も含めてより実証的な検討を要するものだと考えます。しかしながら、こうした批評すら、これまでほとんど見ることができなかったという点では重要な論考です。私がここで言いたいのは、『もしドラ』をこきおろすべきだという話ではもちろんなく、マスメディア、特に雑誌メディアにおいて、あまりに賞賛の記事が偏って見られるというバランスの悪さについてです。

経営学者の米倉誠一郎さんは、『ドラッカーの遺言』(講談社、2006)の書評記事で次のようなことを述べていました(『週刊現代』2006.2.18「『社会生態学』の理論に基づいて的確に見抜いた『予測力』の凄み」)。「偉大なる偶像的預言者を祭り上げ、そのご託宣をありがたく喧伝するという図式」、このようなことを「一番嫌っていたのがまさにドラッカー博士そのもの」だ、と。そしてドラッカーの次のような言葉を引きます。「私たちに必要とされているのは、リーダーを待望する姿勢ではなく、リーダーの登場を恐れることなのです。『彼らが象徴しているもの』や『彼らが代弁する価値』が信頼に値するか、それを見極めることなのです」(『ドラッカーの遺言』136p)。

このような米倉さんの書評、およびドラッカー自身の発言は、まさに日本におけるドラッカーの語られ方、そして『もしドラ』の語られ方にこれ以上なく、しかし逆説的に当てはまるものだと考えます。私が江上さんの著作を紹介したのも、TOPIC-1で少し独特なかたちでダイヤモンド社の中嶋さんのインタビューを解釈したのも、このようなドラッカーの語られ方の偏りを念頭に置いてのことでした。

さて、ここまでで「ドラッカー観の系譜」は終わりです。しかし、もう少し論じなければならない点が残されているように思えます。今回、その一部については語りましたが、「なぜドラッカーが今日ここまで注目を集めているのか」という点の検討が残されています。次週はこの点についてもう少し考えてみることにします。

『ドラッカーの遺言
 P.F.ドラッカー/講談社/2006年

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