<ダイハツの不祥事は「自己中心的な社風」が原因のひとつとされるが、社風とは良い方向にも悪い方向にも働くものだ:加谷珪一>
ダイハツの看板
写真=iStock.com/Muhammad Labib Adilah

軽自動車を手がけるダイハツ工業が長年にわたって大規模な不正を行っていたことが明らかになった。自動車は日本の基幹産業であるとともに、グローバルに通用する数少ない分野の1つである。日本の豊かさを支える最後のとりでが虚偽のデータで支えられていたという現実は、多くの国民に衝撃を与えたことだろう。

不祥事の原因としてさまざまな理由が指摘されており、その中の1つがダイハツの社風とされる。第三者委員会による調査報告書では「自分や自工程さえよければよく、他人がどうであっても構わない」という自己中心的な風潮があり、これが認証試験のブラックボックス化を招いたと指摘している。こうした情緒的な表現はメディアも取り上げやすく、関連した報道が多数、見受けられる。

自己中心的な社風が存在していたのはそのとおりなのだろうが、企業の不祥事を社風の問題として片付けることは、資本主義が高度に発達した現代社会においては危うい行為であると筆者は考える。なぜなら、社風というのは極めて曖昧なものであり、良い方向に働くこともあれば、悪い方向に働くこともあり、それ自体が絶対的な要因にはなり得ないからである。

製造業というのはモノ作りそのものであり、その業務の性質上、何かトラブルがあると全て後工程にシワ寄せがいく。もし各工程の担当者が他部署のことを考慮し、柔軟に対応するような社風だった場合、前工程のミスを後工程でごまかすといった行為が行われかねない。

かつて優秀な日本メーカーにあった社風

つまり自己中心的な社風というのは、品質を担保する重要な役割を果たす可能性もあり、一概に悪いとは言えないのだ。優秀とされた多くの日本メーカーでは、自分の管轄以外のところは一切関心を持たず、指定された業務に集中し、それ以外の要求には応じないという頑固な社風が出来上がっていることが多かった。