禅の本質「いいことも悪いことも思うな」

「過去のことを思い出さない」という言葉に、とくに禅のお坊さんの言葉が多いのは、禅には「前後際断」といって、「過去と現在は別ものなので、今の時点で過去を変えることなど誰にもできない。だから、過去を思い返して悔やむことはやめなさい」という教えがあるからです。

思い出して嫌な気分になるようなら、どんな過去も振り返る必要などないですよ、というわけです。

ここで、禅のお坊さんの有名な話も、ご紹介しておきましょう。7世紀の中国、南宋の時代の慧能えのうという僧侶の話です。

禅はそもそも、インドに生まれた達磨だるま大師が5~6世紀に中国へ伝えたものとされています。ちなみに日本に禅宗が伝来したのは、12世紀に臨済宗を開祖した栄西が、中国で禅を学んで帰国してからです。このとき栄西によって、「喫茶」の習慣も日本に持ち込まれました。

その禅の初祖の達磨大師から数えて6代目が、慧能という人物です。

彼は貧乏な家の生まれで、薪を売って母親を養っていました。それがあるとき、お経を聞いたのをきっかけに急に禅に目覚めます。無学で文字も読めない段階から勉強を開始し、やがて悟りを開いて、ついに中国禅宗の六祖になりました。中国で禅が発達したのは、この慧能の功績が非常に大きかったのです。

五祖であった弘忍ぐにん禅師は、一介の田舎者だった慧能に六祖を嗣がせることに反感を持った古株の弟子たちが慧能を殺すかもしれないことを案じ、こっそりと衣鉢(衣と食器のことで、後継の証)を慧能に渡しました。そして、それを持ってこの場から逃げるようにと告げ、慧能は、言われたとおり法具である衣鉢を持って寺から姿を消します。

六祖の座を狙っていたほかの師匠や弟子たちはそれに気づき、必死で慧能を捜し回り、ついにある山の頂上で彼を見つけ、追い詰めます。そして、師匠や弟子たちがそこに置いてあった、後継の証である衣鉢を持ち上げて奪おうとしましたが、まるで地面にくっついているかのようにまったく動きません。それを見て、慧能は言いました。

「それを持っていきたいのなら、持っていけばいい。ただ、衣鉢は仏法への信を表しているのだ。力で持っていこうとしても、動かすことはできないだろう」

その言葉を聞いた僧たちは、すでに慧能が悟りを開き、新たな大師になったことを確信します。そこで弟子の一人が、彼に尋ねます。

「禅の本質はなんですか?」

そして慧能が答えたのが、次の言葉だったのです。

「不思善不思悪」

「善=いいこと」も、「悪=悪いこと」も、考えてはいけない。

過去に起こった悪いことだけでなく、いいことも思い出してはいけない。過去を思うのではなく、現在のみに集中するのが、私たち禅宗の僧侶がするべきことだ、というわけです。

修行僧でもない我々は、「悟りを開こう」とか、「仏と一体になろう」なんて高尚なことを目指す必要はありません。ただ、禅では、過去のことを思い出そうとしなければ、人は仏の域に達することができる、としていることを知ってほしいのです。

禅を信仰するかしないかはともかく、過去を思い出すのをやめるだけで心の平安や幸福感を得られるのなら、非常に簡単でありがたい教えだと思いませんか?

心を明るく保つ、科学的にも正しい方法

「年をとると、思い出すことの9割が嫌なことだ」という説があります。

心理学の実験で、一つのキーワードから何か過去のことを思い出してもらい、それを3段階くらいの「いいこと」か「嫌なことか」で評価してもらうと、最終的に、約9割は「嫌なこと」になることがわかっています。

実験は、たとえば「友達」「兄弟」「勉強」といったキーワードから、何を思い出したか、で調査します。思い出した内容が「非常に楽しい」なら10点、「非常に嫌だ」なら1点とすると、何点ですかと尋ねるものでした。

満足度調査と顧客サービスのイメージ
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たとえば、大学1年の時の旅行のことを思い出してもらうとします。

すると、最初に出てくる回答は、「その旅行は楽しかった、いい思い出だ。10点中7点!」という感じで始まります。

ところが、引き続きその旅行の細部まで思い出していくうちに、「その旅行中に自分の悪口を言ったクラスメイトのこと」など、点数にすると4点くらいの嫌な思い出が増えていきます。

さらに思い出す時間が長くなると、「その後仲たがいした友人のこと」などを思い出し、結果的に2点や3点の「嫌な思い出」という低評価になってしまうのです。

このように過去の出来事をあれこれ思い出していくと、最終的に嫌いになった人たちのことを思い出す傾向が比較的強く、点数が下がることがわかりました。

実際の人生の出来事を詳細に振り返れば、いいことも悪いことも、どちらも同じように起こっているのでしょうが、どうしても嫌なことばかり長く記憶に定着してしまうようです。

ある説によると、悪い記憶を鮮明に残しておくほうが、今後同じような危険を回避しやすくなり、生き延びるのに都合がいいから、そうなっているのだとか。