ビートルズ『Let it be』が示した最高の智慧
ただ、現代は、それなりに安全に暮らせる時代になりましたから、過去の嫌なことばかりを思い出していたら、気分が沈むデメリットのほうが大きいでしょう。
それなのに、年をとると何もしない時間が多くあるものですから、どうしても過去の出来事を思い出すことが増えてしまい、そのたびにズルズルと芋づる式に嫌なことが想起され、気分はどんどん落ち込んでいきます。
映画やテレビドラマでは、高齢者が美しい過去の思い出に浸って懐かしむシーンが出てくることがあります。そんなシーンを観れば、美しい思い出に満ちた人が羨ましくなるかもしれません。「あれだけ素敵な思い出があるのならば、人生は相当に満ち足りているのだろうな」と。
いえいえ、とんでもない!
どんなに美しく華やかな過去を持つ人でも、人生は楽しいことばかりではなく、必ず、失敗や思い出すのも恥ずかしい記憶、嫌がらせや批判をされた記憶もあるものです。過去の蓋を開ければ、そうした不快な思い出が、いい思い出の何倍も多く自動的によみがえってきて、今日やこれからの気持ちによくない影響を与えます。
開ける必要のない蓋を開ければ、たいてい後悔することになるでしょう。
だから、過去のことは、たとえ「いいこと」であっても思い出してみたところで、「今」をよくすることは難しい。過去の回想に、人生を心晴れやかに生きるための偉大なヒントなんて、まずないということになるのです。
ビートルズの有名な曲のタイトル『Let it be』は、「放っておきなよ」とか「そのままで」のような意味です。作詞作曲をしたポール・マッカートニーは、歌の中で、この言葉を「智慧の言葉」と称賛しています。
起こったことをいくら考えても結論は出ないし、繰り返しその痛みを味わえば心を傷つけるだけ。だから最高の智慧は、「何も考えずに放っておく」こと、ということになるのです。なんとラクではないですか!
笑ってください! 過去に頼って大失敗した、恥ずかしい私の経験
放っておけばいい過去のことを放っておかずに、どうにかしようと足搔いてしまったせいで、余計に傷を広げてしまった経験は、私にもあります。
たとえば最近のこと。たまたま立て続けに何冊か本が売れたので、昔、教授をしていたころに医科学的な専門書を執筆していたある大手出版社の仕事も再開できたらいいなと思い、当時、編集長をしていた人に連絡をとってみたのです。
とはいえ、その人も相当な年齢になり、今は退職しています。それでも編集長までしていた人だから、今もまだある程度の影響力はあるのではないか? 昔のよしみで、出版させてくれるのではないかと考えたのです。
久しぶりに連絡をとって、そうした希望を伝えたところ、現在の編集長を紹介してくださいました。私は期待しながら出版社まで足を運びました。
話し合いの結果、その新しい編集長さんからは、「売れるかどうか、市場調査をしてみます」と言われました。そして後日、彼から電話があり、淡々とした口調で告げられたのです。
「先生の話は独創的ではあるけれども、データを見るかぎり、本が売れている現状はありませんので、今回は見送りとなりました」
ガガーーーン……! 自分が年齢を重ねてしまったこと、かつての名声を失っていることを痛烈に思い知らされ、うかつにも自分はショック死したかと思いました。
が、いやまだ生きていた……と気づくと、今度は「昔はあんなに売れて貢献してあげたのに、なんて冷たいんだ、こんちくしょう!」と、憤慨したわけです。
でも、私が間違っていたのは、昔との状況の変化を認識していなかったことです。今はどれほどその出版社が医科学分野の書籍に力を入れているかもわからないし、スタッフもまったく変わっているのです。
それに加えて、私自身の肩書きも、すでに大学教授のような立場ではなくなっています。「大先生が言うのだから、従っておこう」なんて威光が効力を発揮する時代ではなくなっていたのです。
幸い、私が構想していたテーマの本は、のちにほかの出版社からエッセイ風にして刊行できることとなり、思いがけず新しい読者が得られてそれなりに売れましたから、ズタズタになっていた自信も回復してきました。