自分を厳しく律し続けた医者の末路
「遊び心」について定義をすれば、それは単に、旅行やスポーツ、ゲームなどの娯楽としての遊びをしましょう、という意味ではありません。
そうした純粋な遊びも、したほうがいいのはもちろんですが、「遊び心」を持つとは、“自動車のハンドルの「遊び」”のように、気持ちに余裕を持つという感覚が近いでしょう。
想定外のことや経験したことのない分野、そして新しい出会いなど、どんなことも面白がり楽しむ余裕を持つ――これが何より大切なのです。
忙しくて心に余裕がないとき、私たちは人から何かに誘われても、「時間がない」と断ってしまいます。
用事のない人とは会おうとしないし、誰かと話していても「無駄な話をしている時間はない」なんて焦燥感にとらわれ、冗談の一つも言いません。冗談こそは、しんどいことに立ち向かう際に力をくれる、「遊び心の最たるもの」なのに!
ましてや、目の前の仕事とは関係のない分野の本などを、興味の赴くままに読む余裕などない人が大半ではないでしょうか。
でも、それでは、人生がやがて行き詰まってしまうのです。
ビル・ゲイツの言っていることは、私にもなんとなく理解できます。
実際、私自身が医学の道を志してからは、あらゆる娯楽を我慢して、楽しそうに青春を謳歌する友人たちを横目に、勉強に集中しました。医学部の先生やお医者さんになった人には、同じような苦労をした人が多いでしょう。どんな大学の医学部であれ、かなりの難関です。
それが東大や私学の名門医学部ともなれば、さらにいっそうの我慢と遊び心を厳しく排除する努力を強いられたことでしょう。
そうやって自分を厳しく律することを続けた結果、偉いお医者さんの中には、「遊び心」を失ってしまった人が多くいます。
でも、遊び心を失ってしまうと、年をとってからの気持ちの明るさやキャリアに、大きな差を生むことがあります。
どういうことでしょうか?
遊び心のある一勤務医の嬉しい老後
医師や医学者の中には、テレビのコメンテーターとしてもてはやされ、本の執筆やら講演やらに引っぱりだこの方がいます。彼らはメディアを通して多くの人の健康増進に寄与し、皆が憧れる芸能人たちと共演し、視聴者に慕われ、とても充実した日々を送っているように見えます。
テレビでその様子を見ている医師や医学者たちの中には、自分もあんなふうに活躍したい、認められたい、社会に貢献したいと羨ましく思っている人も多いのではないでしょうか。
いったいどうしたら、あのような立ち場になれるのでしょうか?
有名大学の教授や大病院の院長などの要職に就かないと、無理なのでしょうか?
いえ、実際には、毎日テレビ番組で顔を見かける、タレント顔負けの活躍をしている医師でも、肩書きは個人クリニックの院長先生だとか、病院の勤務医だということはよくあります。
彼らはどうやって、マスメディアで発言する機会を得たのでしょうか?
それは、大学内の派閥や病院間のしがらみに縛られずに自由に発言や活動できる立場を生かして、情報番組やクイズ番組制作者などから求められた要望に対して、真摯に応えることによって、信頼を築き上げてきたのです。
テレビやラジオといった人目につく表舞台に立てば、しゃべり方がヘタだとか、服のセンスが悪い、テレビ映りが悪いなどと、本業とは関係のないことで落ち込むような批判をされることがあります。
でも、彼らはそういうシビアな経験や批判にも、遊び心を持って明るく立ち向かい、「おカネをかけずに健康的にやせる方法を教えてください!」といった要望にも、下世話でくだらない質問だとは考えず、期待に応えようと努力してきました。
かくいう私も、東大の教授などではなく、浜松医科大学という地方の大学の一教授というポジションでしかありませんが、遊び心を持って、いろいろな仕事を受けてこなしてきた結果、88歳になった今でも、こうして医学の専門書ではない、大勢の悩める読者に向けた本を自由に書く仕事をいただけるようになったわけです。