なぜ豊臣家は滅亡したのか。その背景には、豊臣秀吉の「身内殺し」がある。歴史作家の河合敦さんの著書『日本史で読み解く「世襲」の流儀』(ビジネス社)より、一部を紹介する――。(第2回)
豊臣秀吉像(重要文化財・一部)。慶長3年(1598年)賛 京都・高台寺蔵。
豊臣秀吉像(重要文化財・一部)。慶長3年(1598年)賛 京都・高台寺蔵。(画像=大阪市立美術館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

子宝に恵まれなかった豊臣秀吉

足軽の家に生まれた豊臣秀吉は、織田信長のもとでたびたび武功を上げ、やがて長浜城主となった。足軽から城持ち大名へと、驚くべき出世である。

この頃から側室を多く抱えるようになるが、彼女たちが秀吉の子を産むことはなかった。天正十三年(1585)、秀吉は関白に叙され、朝廷の威光を背景に豊臣政権を樹立した。だが、相変わらず子に恵まれず、姉の子や気に入った大名の子を、次々と養子にしていった。

ところが天正十七年(1589)、側室の淀殿が鶴松を生んだのだ。狂喜した秀吉だったが、鶴松は2年後に夭折、仕方なく秀吉は甥の秀次を後継者とした。しかし文禄二年(1593)、再び淀殿が秀頼をもうけた。

すると秀吉は、秀頼を後継者にしようと秀次に謀反の罪を着せて切腹させた。が、自分も三年後に死去し、豊臣家は家康に天下を奪われたうえ、滅ぼされてしまうのだ。