秀次一族を惨殺し、遺体を穴に投げ捨てた

ところで、本当に秀次は謀反を企てたのだろうか。

通説ではでっち上げだといわれるが、謀反の可能性もゼロではない。ただ、世に喧伝されているように、殺生禁断の地で鹿狩りをおこなったり、多くの人間を試し斬りしたというのは、のちに秀吉や豊臣政権が捏造ねつぞうした逸話だと思われる。

ともあれ、通説どおりなら、我が子に政権を譲るために、じゃまになった甥の秀次に罪を着せて抹殺したわけで、なんとも身勝手なことである。さらに悲惨だったのは、約四十名に及ぶ秀次の妻妾とその子供たちだった。

秀次の死後、彼女たちは聚楽第から三条河原に引き出された。河原には刑場が設けられたが、なんと塚の上には、秀次の生首が置かれていたのである。その首の前で、処刑人たちは泣き叫ぶ子供を母親から引き離し、容赦なく心臓に刃を突き立て、続いて女たちをほふり去っていった。あたかも地獄絵を見るようであった。

そして大きな穴を掘り、遺体をすべて穴へ放り込んだ。慈悲の心がみじんも感じられない残虐な所業である。こうして主がいなくなった壮麗な聚楽第は、あれほど金をかけ贅を尽くして建てたのに、秀吉の破壊命令によって建築物もすべて撤去され、立派な石垣は完全に崩され、七メートルの深い堀も埋められ、何もない更地になってしまった。

秀吉は、それから三年後に六十二歳で死去した。

わが子への愛情が豊臣家の崩壊を招いた

跡継ぎの秀頼はまだ六歳だったので、本人が政務をとれるはずはない。それは秀吉も重々わかっていたので、死ぬ間際、秀吉は徳川家康など五人の有力大名(五大老)を枕元に呼び寄せた。そして「秀頼事、たのみ申し候。五人の衆たのみ申し上げ候(略)いさい五人の者に申しわたし候。なごりおしく候。以上。秀頼事、成りたち候やうに、この書付の衆として、たのみ申し候。なに事も、此のほかには、おもひのこす事なく候」と書いた遺言状を与えたのだ。

河合敦『日本史で読み解く「世襲」の流儀』(ビジネス社)
河合敦『日本史で読み解く「世襲」の流儀』(ビジネス社)

また、自分の死後について秀吉は、秀頼が成人するまで信頼する五大老と五奉行に合議制をおこなわせようとしたといわれている。なお、近年は家康を天下人とし、秀頼が成人したのちに、天下を豊臣に返すという約束が成立していたという説がある。

ただ、そんな遺言は守られるはずはなく、秀吉が亡くなるとすぐに豊臣政権は分裂し、やがて家康が武力で天下を奪い、その後、秀吉最愛の息子である秀頼を死に追いやり、豊臣家を滅ぼしたのである。

もし秀吉が、秀次とその一族の処刑を思いとどまっていれば、関白秀次が立派に後継者として成長し、豊臣政権は盤石になった可能性もある。そうなれば、家康が天下を握る機会は訪れなかっただろう。

秀吉はわが子を深く愛したように見えるが、それは単なる自己愛、利己心であり、それが秀頼を死に追いやり、豊臣家を滅亡させたのである。

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