豊臣秀吉が朝鮮出兵のために建てた肥前名護屋城とはどんな城だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「大坂城に次ぐ大きさで、中心には5重7階の天守が建っていた。わずか6カ月でできたとは思えない大城郭だった」という――。
名護屋城天守跡
撮影=プレジデントオンライン編集部

なぜ秀吉は朝鮮出兵を行ったのか

豊臣秀吉は朝鮮半島に侵攻し、ひいては明を征服するという計画、すなわち「唐入り」。NHK大河ドラマ『どうする家康』第38回のタイトルでもある派兵を、突然思いついたわけではない。

天正20年(1585、年末に文禄と改元)関白に叙任された直後、子飼いの一柳直末への書状に「日本国の事は申すに及ばず、唐国まで仰せ付けられ候心に候か(日本はもちろん、明国まで手にいれる)」と書いており、早くから心に思い描いていたようだ。

実際の出兵は文禄元年(1592)の春からだが、むろん準備は事前に進められた。なかでも特筆すべきが肥前名護屋城(佐賀県唐津市)の築城である。この城について知れば、秀吉が握った権力の大きさも、それが途轍もない暴挙につながったことも、老若男女貴賤を問わず、あらゆる人から可能なかぎりを収奪したこともわかる。

イエズス会のポルトガル人宣教師、ルイス・フロイスの『日本史』によれば、秀吉が「軍勢を朝鮮へ比較的容易に渡航させるのにいかなる港があるか」と尋ね、家臣たちが「名護屋というきわめて良い港がある。そこは平戸から十三里距たっており、一千余艘の船が安全に出入りでき、同所から朝鮮に渡ることは容易であろう」と答えたという(引用は松田毅一・川崎桃太訳、以下同)。

九州の大名たちの持ち出しで完成

そこは九州北部に突き出た東松浦半島の北端で、壱岐や対馬経由で釜山に渡るためには、たしかに好適な場所だった。それを聞いた秀吉の指示について、フロイスはこう記す。

「関白はただちに都地方、ならびにさらに遠方に住む日本の諸侯や主だった武将たちに、その辺鄙な名護屋に合流し集結することを命じた。そして各人の負担をもって関白のために、先に都に造営された聚楽亭に比しほとんど遜色がないほどの、大きい濠や多数の居間を具備した豪壮な宮殿と城を建築するように言い渡した」

さらに具体的なことは、天正19年(1591)8月23日付で石田正澄が相良頼房に宛てた書状に、次のように書かれている。

「来年三月朔日ニ、唐ヘ可被作入旨候、各も御出陣御用意尤候、なこや御座所御普請、黒田甲斐守、小西摂津守、加藤主計被仰出候(来年3月1日に明国に渡り、秀吉自身も出陣するので、名護屋城の御座所の普請が黒田孝高、小西行長、加藤清正に命じられた)」

こうして、九州の大名たちによる割普請、すなわち自己負担による分担工事で10月上旬から作業が開始され、3月26日に京都を発った秀吉が4月25日に到着したころには、おおむね完成していた。