大坂城に匹敵する規模の城

名護屋城は秀吉が朝鮮半島に出兵し、明を征服するための陣城、つまり臨時の本営だったから、短期間で完成されて当然だが、それにしてはスケールが大きすぎる。秀吉が聚楽第に遜色がないように指示したというのは誇張ではない。

フロイスは名護屋について、「その地は僻地であって、人が住むのに適しておらず、単に食糧のみならず、事業を遂行する際のすべての必需品が欠けており、山が多く、しかも一方は沼地で、あらゆる人手を欠いた荒れ地であったことである」と書いている。そんな場所に当時の大大名の居城をはるかに凌駕し、秀吉の大坂城や聚楽第にも匹敵する規模と豪華さの大城郭が築かれたのである。

城跡に立つと、石垣が随所でV字型に崩されているのに気づく。これは寛永15年(1638)の島原の乱後、城が一揆などに使われることを恐れた幕府の命による破壊の跡だが、石垣が多少崩されたくらいでは、この城のスケール感は損なわれない。城域は17万平方メートルにおよび、すべて石垣で固められている。

現在の名護屋城の姿。わずかに残された石垣が辛うじて往時を偲ばせる。
撮影=プレジデントオンライン編集部
名護屋城の本丸大手口の現状。江戸初期に石垣の要所が崩されながらも、いまの往時のスケールがよく伝わる。

金箔瓦の5重7階の天守

本丸の西北隅には天守台があって、金箔瓦が葺かれた5重7階の天守がそびえ、本丸だけでほかに大きな二重櫓が5基も構えられ、櫓や塀に囲まれた本丸中央には絢爛けんらん豪華な御殿が建っていた。また、三の丸から本丸に入る本丸大手には二重の櫓門が建ち、のちに伊達政宗が仙台城の大手門として移築したと伝えられる。昭和20年(1945)の空襲で焼失したこの門が、城門として日本最大級だったことからも、名護屋城のスケールが伝わる。

二重櫓は城全体では10を数え、各所に残る櫓台の石垣が巨大であることからも、そのスケールがわかるだろう。たとえば三の丸から馬場に入る門の左(南)側にある櫓台は城内最大級で、その西側には城内最大の鏡石(大きさが周囲とけた違いの石)が積まれている。そのサイズは高さ2.9メートル、幅1.7メートルで、重量は11トンにもなる。

また、三の丸の外面に連なるこの櫓台南側の石垣は高さが15メートルにおよぶ。本丸の西側に広がる二の丸の西面も、15メートルの高石垣で守られていた。

付言すれば、城の周囲には広大な城下町が整備され、名護屋の人口は最盛期には20万にもおよび、京をもしのぐ賑わいだったという。事実、一時的にここは日本の政治、経済の中心になったのである。