3年前の夏、元文部大臣の赤松良子氏や元宮城県知事の浅野史郎氏らとともに「村木厚子さんを支援する会」の呼びかけ人をつとめた。無条件に村木さんの無実を信じていたからだ。家族や友人を含めて考えてみても、村木さんこそが、軽犯罪や交通違反を含めたあらゆる犯罪からもっとも遠い存在なのだ。村木厚子さんを評して聖母のような存在だという人が少なくない。
その村木さんを逮捕し、半年近く拘留した検察に対して抱いた感想は、怒りや恐怖ではなく、呆れと失望であった。少なくとも当時の大阪地検特捜部には人を見る目がまったくないということであり、この程度の能力では、逆に本物の贈収賄犯や市場経済犯を見落とすこともあるだろうと思った。むしろ日本の秩序や市場はこれまでどおり守られるのであろうかと心配になったのだ。
本書はその素人の勘があながちハズレではないことを、さまざまな観点から解説してくれるおススメ本だ。著者は司法ジャーナリズムの第一人者。永田町と霞が関の権力構造を追いつづけた記者だ。ただただ検察の失敗を糾弾するという立場ではない。検察は国民の共有資産であり、重要な統治装置だという立場から、建設的な提言まで行っている。
戦後まもなく、検察は旧大蔵省を頂点とした官僚システムを、利権政治家や経済アウトローから守っていた。いわゆる、黒幕やドンといった連中から日本を守っていたのだ。しかし、1990年代に入り貴族と化した大蔵省のスキャンダルが発覚し、検察は市場を守る方向に舵を切ったのだという。
しかし、検察が習熟していたのはあくまでも贈収賄や脱税といった、さほど知的とはいえない経済犯罪だった。いっぽうで社会が求めていたのは、市場の信頼性を担保するためのホンモノの市場検察だった。
ところが、ライブドア事件では数十億円の粉飾をしたとして堀江貴文社長に実刑判決がくだされたものの、日興コーディアルグループによる数百億円の粉飾に対してはお咎めなしだった。オリンパス事件では月刊誌「FACTA」が事実上の捜査機関の役割を果たし、検察は追従することとなった。検察は知的な市場犯罪に対処する能力を養っていなかったのだ。
本書はほかにも、鈴木宗男氏と佐藤優氏に関する事件で有名になった「国策捜査」。拘置所という密室に長期間閉じ込める、心理的な拷問「人質司法」。メディアをコントロールするための「情報権力」。特捜検事から一転ヤクザの守護神になることもある「ヤメ検」など、さまざまなキーワードで検察の現状を明らかにしていく。
本書の魅力は戦後左翼的なただただ批判という立場ではないことだ。それでは変化できない検察と同じなのだ。検察は企業人の反面教師なのかもしれない。