今では考えられないシーンがお茶の間に流れていた

沢田は野球が好きで、立教大学に入り長嶋茂雄のようなプロ野球選手になることが夢だった。水谷もリトルリーグで活躍し、投手でキャプテン、東京大会で優勝している。

沢田は喧嘩が強かった。瞳みのるは沢田がファニーズというバンドにいた頃、演奏を終えた帰りに難波で喧嘩になり、一発でヤクザをKOした沢田の「蹴り」を見ている。

沢田は、「喧嘩なんて先手必勝です」(『我が名は、ジュリー』中公文庫)

共通の友人としてショーケンこと萩原健一がいた。沢田にとって萩原は唯一の心の友であり、水谷はよき先輩として。

ところで、『太陽を盗んだ男』の前に、島﨑氏にいわせると、「BL(ボーイズラブ)」の記念碑的作品が、沢田の主演で放送されていたという。

テレビ界の伝説的プロデューサーでありエッセイから小説まで書いた久世光彦のドラマ『悪魔のようなあいつ』がそれだ。

沢田が演じたのは3億円事件の犯人で男娼、不治の病に冒されているという役で、「時のトップスターが上半身裸でベッドシーンを演じるなど、今のアイドル、ドラマでは到底考えられないシーンが展開される。

「(中略)画面にはエロスと暴力と頽廃が充満し、女たちだけではなく、周囲の男たちをも狂わせながら破滅へと向かっていく良(沢田=筆者注)は壮絶なまでに美しい。良と、藤竜也が演じたバーのオーナー野々村の危険な関係は、視聴者の胸をざわつかせた」(『ジュリー』)

水谷は不遇の時代を過ごしていた

この時、沢田は26歳。1967年、18歳でザ・タイガースのリードボーカルとしてデビューし、GS(グループサウンズ)ブームの先頭を走っていたことは、いまさら触れる必要はあるまい。

ザ・タイガース解散後、沢田はロックバンドPYGで萩原健一とツインボーカル。その後、ソロ歌手になる。

「新曲を出せばその斬新なファッションも含めて話題になる時代のアイコンだった。七一年のソロデビューから十五年間の国内シングル盤総売り上げはトップ、沢田はポップスターとして覇権を握り続け、日本中の女たちが『ジュリー!』と叫んでいた」(『ジュリー』)

水谷を国民的人気者にしたドラマ『熱中時代』は1978年にスタートするが、彼の芸能界デビューは早い。12歳の時に「劇団ひまわり」に入り、翌年、子役としてデビューしている。

数々の映画やテレビには出ていたが、次第に「どうもこの世界は違う、芸能は自分が進む道じゃないな」と思い、アメリカの大学に進学しようと決意したという。

だが、父親の会社が経営破綻して、留学どころではなくなり、日本の大学を受けることにしたが失敗。衝動的に家を飛び出し、2カ月ほど国内を放浪して家に戻った。

アルバイト感覚で京都の撮影所に行く。ショーケンの『太陽にほえろ!』の第1話、「マカロニ刑事登場」に犯人役で出演している。後楽園球場で萩原が力を抜かず追いかけてくるため、水谷も全力疾走した。

1973年のブロマイドの売り上げ第1位は森田健作、2位は石橋正次、3位が水谷豊だったという。