水谷は「カメラの前で狂うことができる役者」
水谷のほうは、『傷だらけの天使』に続いて『熱中時代』でスターの地位を確立し、彼が歌った主題歌「カリフォルニア・コネクション」は65万枚の大ヒットとなった。
彼の代表作『相棒』が始まったのは2000年からである。初めて脚本を読んだ水谷は、「刑事物としてこんな本があるのかと驚いたし、とにかく面白かった」と興奮したという。
杉下右京の人物造形は、「『あの人、ちょっと嫌味な人ね』とか『冷たい感じ』とか、あまり人に好かれないタイプにしようと決めました。むしろ嫌われるキャラクターを意識的に創った。なぜ、彼がそんなふうになったのかは、時間をかけて分かってもらえればいいと」(『水谷豊』)
テレビを観なくなった大人を振り向かせたいとの思いで始めた『相棒』は劇場版もヒットし、公式オフィシャルガイドがつくられる類を見ない長寿人気番組になった。水谷の役者としての魅力を長谷部安春監督はこう表現している。
「カメラの前で狂うことができる役者」
そんな水谷にも「老い」は迫ってきている。
だが、「終活」という言葉とは無縁のようだ。
レコード、CDからネットに代わり、ファンも変わった
「君の色気は天下一品。男が惚れる色気です。千年に何人かのスーパースター」(作詞家宮川泰)である沢田は、1970年代の終わりに「TOKIO」を大ヒットさせ、デビュー25周年にあたる1991年にはNHKの衛星放送で、「沢田研二スペシャル 美しき時代の偶像」が5日連続で放送された。
だが、音楽業界もレコードからCDになり、ネットになっていった。熱狂的なジュリーファンも結婚して、毎回コンサートには行けなくなってきた。
沢田は、売れることにこだわった。だが、1983年に出した「きめてやる今夜」が10万枚を超えた最後になった。
渡辺プロからの独立、11年間一緒に暮らしてきた伊藤エミとの離婚で、18億円ともいわれる資産を譲渡したといわれる。“不倫”といわれていた女優の田中裕子と結婚したのが1989年11月。これが彼の芸能生活のターニングポイントとなった。