家康と築山殿を不仲に描かない大河ドラマ
徳川家康と正室の築山殿が不仲だったというのは、研究者によって強弱こそあるが、ほぼ共通認識である。元亀元年(1570)、家康が岡崎城(愛知県岡崎市)から浜松城(静岡県浜松市)に拠点を移した際、岡崎にとどまって以来、築山殿は死ぬまで家康と別居生活を送った。そのことからも、不仲だったことは疑う余地がないといわれている。
ところが、NHK大河ドラマ『どうする家康』を見ているかぎり、この夫婦が不仲だとは微塵も感じられない。家康は築山殿(ドラマでは瀬名)を慕いつづけ、ほんとうは一緒に暮らしたいのだが、岡崎にいる長男の信康の面倒を見るために、築山殿は自分の意志で岡崎に残っている、という設定なのだ。
脚本を担当した古沢良太がそう描いてきたのは、築山殿(ドラマでは瀬名)を、大河ドラマの中盤における悲劇のヒロインに仕立てるためだったのだろう。
だが、それにしても、築山殿の悲劇があまりにも荒唐無稽に描かれようとしている。そのことが、第24話「築山に集え」(6月25日放送)でわかったのである。
築山殿が語ったファンタジー
まずは、いかに荒唐無稽であったかを、具体的に確認しておきたい。
ドラマでは、築山殿(有村架純)と信康(細田佳央太)が、築山殿の住む岡崎の築山で宿敵である武田家の重臣、穴山信君(田辺誠一)らと密会し、さらには方々に密書を送り、自分たちへの賛同者を募っていた。そのことを石川数正(松重豊)や酒井忠次(大森南朋)ら重臣も察知した。
妻子が宿敵とはかりごとをしていては、さすがにまずい。織田信長(岡田准一)に知られれば、ただでは済まされない。このため、家康(松本潤)らは家臣とともに築山に踏み込むが、そこで築山殿は驚くべきファンタジーを語った。
「ひとつの夢を描くようになりました」と話しはじめた築山殿は、「私たちはなぜ戦をするのでありましょう」と家康に問う。家康は「わしは生まれたときから、この世は戦だらけじゃ。考えたこともない」と返答し、「戦をするのは貧しいからじゃ。民が苦しめば、隣国から奪い合うしかない」と追加する。
これに対し、築山殿は「もらえばようございます」と訴えたのだ。「奪い合うのではなく与え合うのです。さすれば戦は起きません」と。隣国同士で足りないものを補い合う。そのために共通の通貨による経済圏をつくり、武力ではなく慈愛の心で結びつくのだという。