旧態依然たる考えを覆したのは“熱情”だった

雅子さんに問題があったわけではないが、当時の宮内庁では、皇太子のお嫁さんは「清潔で立派な家庭」という古めかしい考え方が支配していたようだ。

森教授によれば、雅子妃が候補として消えた後、ある女性が有力候補になったことがあったという。

だが、「やはり曽祖父が朝鮮総督府で武断政治を進めた幹部であったことが問題となった。昭和から平成の妃選考では、家系と血筋が依然として重要だったのである」(森教授)

そうした宮内庁の旧態依然たる考えを覆したのは、皇太子の雅子さんに対する“熱情”であった。

文藝春秋(7月号)ではジャーナリストの友納尚子氏が、皇太子が小和田雅子さんと結婚するまでの「秘話」をこう明かしている。

1992年2月、赤坂東宮御所の一室には皇太子と菅野弘夫東宮大夫の2人。それまであまたのお妃候補たちが浮かんでは消えていった。さらに広い範囲から候補をピックアップしようと大夫が説明している時、皇太子が思いもよらぬ人物の名を挙げたという。

「小和田雅子さんではだめでしょうか」

彼女は5年前、小和田家から人を介してやんわり辞退する旨が伝えられており、お妃候補からは消えていたのだ。

このことはこれまでも報じられていたが、陛下が即位した後なら公にしてもいいといわれ、友納氏が聞いた秘話を披露している。

5年もの間「ずいぶん待ちました」

皇太子は雅子さんについて次のように語ったという。

「いつも周りの人たちを気遣うような思いやりのある方でした」「はにかむ……というか、そういう笑顔がとても印象に残っています」

皇太子は5年間、雅子さんのことを思い続けていたのである。皇太子は浩宮時代の二十歳の誕生日会見で、結婚する人はどんな人がいいかと聞かれ、

「人の苦しみや悩みとかの心情をおしはかって、思いやれる人がいいと思います。皇族は色々な人と会う必要がありますが、いろいろな経験を積んでいる人なら人の心が分かってくると思います。家柄の良い人というけれど家柄がいいゆえに世間知らずに育ってしまって他人の心が良く分からない人では困ります」

と答えている。

結婚相手については、「最終的には自分で決めたいと思っています」と意思表示していたが、これは「皇太子の初めての反抗」とまでいわれたほど、我を出さない皇太子にしては珍しいものだった。

大夫は皇太子の言葉を聞いて、「お決めになられたのですね」というと、「ずいぶん待ちました」といい、表情に迷いは感じられなかったという。