天正3年(1575年)、進撃を続け領土を最大に広げていた武田勝頼は、長篠の合戦で織田信長・徳川家康連合軍に破れる。歴史学者の平山優さんは「歴史の教科書にも、先見性に富む軍事の天才である信長が、勝頼の騎馬軍を鉄砲の威力で倒したと書かれているが、勝頼も鉄砲を大量に用意し、装備率は織田軍と変わらなかったことがわかってきている」という――。

※本稿は、平山優『武田三代』(PHP新書)の一部を再編集したものです。

米沢上杉まつりの様子
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武田騎馬隊の「旧戦法」対「新戦法」の信長という通説

長篠合戦とは、いったいどのような意義がある戦いだったのだろうか。このような問いをわざわざ立てたのは、今も、歴史教育の分野で、長篠合戦は教科書において「(信長は)三河の長篠合戦で多くの鉄砲隊を使って武田氏の騎馬軍団を破った」(『改訂版高校日本史・日本史Β』山川出版社)と記され、それは、鉄砲3000挺を揃え、その連射(いわゆる「三段撃ち」)により、騎馬攻撃という旧来の戦法を撃破したという構図で語られているからである。

そこには、先見性に富む軍事的天才織田信長が、保守的な武田勝頼の軍勢(兵農未分離で後進的な武田軍)に対し勝利した、という暗黙の理解が横たわっているといえるだろう。

だが、この10年ほどで、織田権力や戦国大名の軍隊編成に関する研究は飛躍的に進んだ。その結果、兵農分離という概念そのものが再検討を余儀なくされ始めている。織田も、武田も、在村被官の動員という点において違いはないどころか、そもそも兵農分離の実証研究が存在しておらず、イメージ先行という異常さなのである。

武田軍は信長をしのぐほど鉄砲を重視し導入していた

また、保守的な武田という点で言えば、武田氏が鉄砲を軽視していたということ自体が、事実に反することも明確になっている。武田氏は、天文24(1555)年の第二次川中島合戦で、300挺からなる鉄砲衆を投入している。そして、鉄砲の動員に関する、武田側の史料は、織田信長のそれを遙かに凌ぎ、その大量導入に躍起になっていたことがわかっているのだ。

これまで、武田氏の鉄砲装備については、信玄・勝頼が、家臣や国衆に発給した軍役定書の記述に全面的に依拠して論じられていた。武田氏は、家臣や国衆の知行貫高に応じて、騎馬、長柄(槍)、鉄砲、弓などを賦課していた。この中で、鉄砲と弓は、およそ軍役人数の10%程度だったことが指摘されている。

これを念頭に鉄砲装備の割合を考えてみよう。織田・徳川連合軍の兵力は、長篠合戦時、3万5000余人だったといわれる。これを事実とするならば、鉄砲数は3000挺、この他に酒井忠次らの別動隊に預けた鉄砲は500挺とされている。そうすると、鉄砲数は3500挺となり、装備率は10%となり、武田氏の軍役定書から導き出される数値と同じである。分母こそ異なるが、武田と織田は割合でみるとほぼ同率なのだ。武田軍も、約1000〜1500挺は保持していた計算になる。