一時は信長をしのぐ強さを見せた勝頼だが、長篠合戦の7年後に妻子もろとも滅んでしまう。武田氏研究の第一人者である平山優さんは「勝頼は築城中だった新府城を捨てたために名誉ある自刃ができなかった。山野で武田家が滅亡する間際、譜代家臣の土屋昌恒は『敵はよそにはいないもの』と涙ながらに勝頼を非難したと伝わっている」という――。

※本稿は、平山優『武田三代』(PHP新書)の一部を再編集したものです。

山梨県甲州市、JR甲州大和駅前の武田勝頼像
撮影=プレジデントオンライン編集部
山梨県甲州市、JR甲州大和駅前の武田勝頼像

織田軍の勢いに作戦が崩れ、武田軍は最後の軍議を

天正10(1582)年3月2日が暮れた頃、新府城に赤裸の体の男10人ほどが、(信濃の武田領)高遠城から落ち延び城の落城を報告した。勝頼以下、武田方は衝撃を受けた。高遠城は要害堅固で、仁科信盛、小山田兄弟以下、武田軍でも屈強の兵卒を1000人余も籠城させ、兵粮・矢・鉄炮・玉薬なども十分に備蓄されていたので、20日や30日は籠城に耐え、織田軍の侵攻を食い止めると想定されていた。

その間に、武田方は新府城の普請を急がせ、今後の軍事行動の策定をしようと計っていた。しかし、高遠城が一日ももたずに落城したことで、すべてが狂ってしまったのである。

高遠落城の知らせに、新府城内は大混乱に陥り、身分の上下を問わず、新府城から逃亡する者が続出した。城内が騒然としていたなか、勝頼は諸将を集めて、最後の軍議を開いた。その模様は、『甲陽軍鑑』『甲乱記』などに記録されている。

新府城は未完成で櫓一つないありさまだったので、籠城戦は出来ないというのが、諸将の共通認識であった。これに対し、主な意見が三つ提案されたという。まず、嫡男信勝は、どこに逃げ回ることもなく、手塩にかけて築いた新府城で敵を迎え撃ち、最後は尋常に自刃すべきだと主張した。

勝頼は小山田信茂の都留郡撤退論を採用した

次に、小山田信茂が、自分の支配領域である都留郡(郡内)は険阻けんそな地形なので、大軍を引きうけて戦うには有利であると述べ、岩殿城に移って籠城戦を行い、時勢が変化するのを待つよう進言した。最後に、真田昌幸が上野国岩櫃城に籠城するよう献策したという。ここも険阻な地形であり、大軍を迎撃するにはうってつけであるし、上杉の支援も期待できるというのが、その理由であった。

勝頼は思案のすえ、都留郡岩殿城に落ち延びることを決めた。彼は、若い北条夫人を、北条氏政のもとに送り返し、信勝を落ち延びさせ、後顧の憂いなく戦うために、北条領国に隣接する都留郡を選んだのだという(勝頼の乳母・理慶尼による『理慶尼記』)。